2025年10月5日
年間第27主日  ルカ17:5~10

 さて、ルカ17章にもイエス様のたとえ話が登場してきます。今日の箇所を語ることになったきっかけは、弟子たちが「私たちの信仰を増してください」と願ったことでした。これは、ある意味で「率直で、イエス様の弟子たちらしい」願いだと思います。なぜなら多くの人々は、信仰を、その人の主体的な努力、知的、意志的な探求心、求道的な姿勢と考えているからです。しかし、聖書の中では時々、このような願い・叫びが登場してきます。子供が悪霊にとりつかれて苦しんでいる父親がイエス様に「もし、出来ることでしたら、この子を救ってください」と頼んだ時、「信ずるものには何でも出来る」とイエス様は答え、父親は「信仰の弱い私を助けてください」と叫んでいます。

 また、たびたびイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と語られています。信仰とは一体、何なのでしょう? この基本的なことについて考えてみましょう。一般に「信仰」とは、「神様を信じること」と理解されています。それは正しいことですが、では、どうすれば神様を信じることが出来るのでしょうか? それには二つの面があると思います。知ることと委ねることです。

 旧約聖書では、「アーマン」と「バータハー」という二つのことばで信仰の両面が表されていました。アーマンは「アーメン」と同じ語源であり、「堅固、確実」を表すことばです。すなわち、人間として与えられている能力を総動員して探し求める、主体的な努力という側面、そしてバータハーは、知識や理解を超えて委ねていることへの安心感です。すなわち、「本物、真実だからこそ」安心して委ねることが出来ると感じられるということなのです。からし種1粒ほどの信仰があれば、という表現には、小さく見える出発点でも成長してゆけば、という将来への展望が含まれていると思います。「からし種を見なさい。それは目に見えないほど小さいが、それが育つと鳥が来て、巣をかけるほどに成長する」のです。従ってキリスト教で言う「信仰」は、自力本願でも他力本願でもなく、つまりどちらかの一方通行的な信仰ではなく、神様の恵みと人間の努力が出会うことによって初めて可能になることなのです。

 信じることは、探し続けること、学び続けることなしに成り立ちません。つまり、御父への道であるイエス様との親しさを増し続けることなのです。キリスト教の最も古い呼び名は「主の道に従う者たち」(使徒行録9:1)であり、後にアンティオキアにおいてキリスト者と呼ばれるようになりました(使徒行録11:26)。この名によって分かる通り、私たちは生涯、求道者であることを忘れてはならないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*信仰は無くなることはありません。神様が私たちを信じているという点で。