今日の福音

稲川神父の説教メモ

2025年12月28日
聖家族  マタイ2:13~15,19~23  

 クリスマスとご公現の間の日曜日、聖家族の祝日が祝われます。家庭・家族はどの時代にあっても大切な価値を持つものです。カトリック教会では、家族を「小さな教会」(現代世界憲章48~52)・「人生を学ぶ学校」(キリスト教教育に関する教令3)と表現しています。家庭は愛といのちの絆によって結ばれた人々が「ともにいる場」であり、家族の絆は日々、互いを思い合い、その人のためにしなければならないこと、してあげたいと思うことをことばや行いを通して実現してゆかなければ続かないもの、すなわち生きているものなのです。

 さて、福音朗読では聖家族がエジプトに難を逃れるために旅立ったことが語られました。このエピソードの中ではヨゼフ様の果たした役割はとても重要です。イエス様の誕生や幼年時代においてヨゼフ様の果たした役割がこれほど大切なのに、ヨゼフ様のことばは一言も記されていません。しかし、イエス様が「ヨゼフの子」(ルカ4:22、ヨハネ6:42)と呼ばれ、「大工の子」(マタイ13:55)と呼ばれていることからも、ヨゼフ様がナザレやガリラヤにおいて人々から深い人望を得ていたことが推察されます。

 ヨゼフ様は夢でお告げを受けます。マリア様の夫になる時も、そしてエジプトへ難を逃れる時も。夢という不確実なもの、多くの人は気にもとめないかすかな兆しをヨゼフ様は見逃しません。大切な家族を守るためです。マリア様も信頼するヨゼフ様がそう決めたなら疑うことなく信じてついてゆきます。ヨゼフ様は周りの人々に、「この人がこう言うならば」と思わずうなずいてしまう、深い、やさしい、広いまなざしと思いやりを感じさせる魅力があったのでしょう。ことばのたくみさや明快な説明がないとなかなか信じようともしない私たちですが、ヨゼフ様の人柄には、私たちのちっぽけなこだわりを溶かしてしまう、おだやかでありながら力強いものがあったのでしょう。

 知らない土地でどのように暮らしたらよいのか、マリア様や幼子に無理な旅をさせていないか、今日はどこに泊まろうか、ようやくヘロデ大王が亡くなったが本当に大丈夫かと、次々に起こる深刻な問題や悩みにもヨゼフ様は淡々と、しかも賢明に対処してゆきます。まさに職人業というべきか、学者のような難解な議論ではなく、癖のある材木を手でなぜただけでどう生かすか、形にするかを感じ取って、かんなやのみを使って見事な形に仕上げてゆく姿が彷彿とします。 「幼子は背丈も知恵も増し、ますます神と人に愛された」(ルカ2:52)に記されていますが、この平凡で単純に見えることを実際に行うことはなんと難しいことでしょう。家庭と教会、それは日々の祈りと努力によって育つものです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*家族のためにあなたが日々行っていることは何ですか?

2025年12月21日
待降節第4主日  マタイ1:18~24

 いよいよ待降節も最後の1週となりました。今年のクリスマスの準備はもう出来ていますか?と自分自身に問いかけてみると、「まだまだ」と思っているうちにクリスマスはもう来ているというようなことが多いのではないでしょうか? 今日朗読されたマタイ福音書ではヨゼフ様への夢のお告げという形で、イエス様の誕生が予告されます。これはルカ福音書のマリア様への天使ガブリエルのお告げということといろいろな点で対照的な面があります。マタイ福音書の冒頭にはイエス・キリストの系図とよばれるものがあり、イエス様がダビデの子孫として生まれることが、ユダヤ人からキリスト者になった人たちには、イエス様のメシアとしての正統性を裏付ける意味で大切なことであったのでしょう。

 さて、自分の妻となるマリア様がメシアの母となることを知ったヨゼフ様は「これは神様が働きかけて行われるみ業であり、自分はメシアの父親の役割を果たすのはふさわしくない」と考えて、離別することを考えます。それはいかにも謙遜なヨゼフ様らしい考え方でした。しかし、このようなヨゼフ様だからこそ、その役目を果たすのにふさわしい方だったのです。夢のお告げに天使が現れ、「ダビデの子、ヨゼフ」と呼びかけ、「その子をイエスと名づけるように」と使命が託されます。イエスと私たちは発音していますが、ヘブライ語では「イェシュアー」、旧約聖書ではモーゼの後継者として「ヨシュア」と呼ばれる、イスラエルの民を率いて約束の地に導く新しいリーダーの名前です。マタイがイエスの名を告げているのは、新しい天、新しい地に導く、旧約から新約の時代に変わってゆくことをこの名によってあらわしているのだと思います。

 マタイ福音書においては、イエス様の誕生の物語の中で、ヨゼフ様は再びあのヘロデ大王の迫害について夢のお告げを受け、エジプトへ避難します。またあの3人の博士たちも夢でお告げを受けて、ヘロデ大王のところには立ち寄らず、自分たちの国に帰ってゆきます。これらのエピソードはマリア様のように直接、天使と出会い、対話してゆくことはなくても、いろいろな事象、出来事を通して、神様からの呼びかけに応えてゆく心を持つことの大切さを教えているように思います。私たちはヨゼフ様のように今、自分がなすべきことについてよく考え、そして行うことが必要なのです。たとえ、それが思いがけないことであっても、面倒なことであっても、自分の利益にならないことであっても、神様の望みであるならばと信じることが出来るならば……

【祈り・わかちあいのヒント】
*自分の夢ではなく、神さまの夢を実現させるためになすべきことは?

2025年12月14日
待降節第3主日  マタイ11:2~11

「来るべきお方とは?」

「来るべきお方はあなたですか?」という洗礼者ヨハネの質問により、イエス様ご自身の口から「メシア=救い主」の姿が説明されます。そのこたえはマタイ福音書におけるキリスト論の中核をなすものとなっています。すなわち、「①目の見えない人は見え、②足の不自由な人は歩き、③重い皮膚病を患っている人は清くなり、④耳の聞こえない人は聞こえ、⑤死者は生き返り、⑥貧しい人には福音が告げられている。⑦私につまずかない人は幸いである」という7つのことばにまとめられています。イエス様のこたえは①様々な苦しみがいやされること、②貧しい人々に福音が宣べ伝えられること、③しかし、メシアとしての使命が成就される道は人間にはつまずきとなるような仕方であることという3つに大別されます。様々な肉体的な苦しみ(病気や死)は、人間の罪の状態をシンボリックに表しており、それらのものからの解放は、悪の力、罪の支配から神の愛、恵みの支配のもとに贖い出す神の国の到来のしるしとして描かれています。

 旧約聖書の思想の特徴は、人が罪によって盲目となるという考え方です。「欲に目がくらむ」という表現が日本語でもあるように、自己中心的な心にとらわれる人間は周りのことが見えないために罪を犯すことになるのです。イエス様がファリサイ人たちに「あなたたちは見えると言っていることに罪がある」(ヨハネ9:35~41)とおっしゃるのはこのためです。真の光であるキリストに心を開かなければ、私たちはこの世界、自分の人生をどのように歩むべきかさえ、見出すことができないのです。見るとは物理的に見ることではなく、現実の出来事の中に、神のみ旨を悟ることなのです。しかし人間には「光より闇を好む」(ヨハネ3:19)という傾きがあります。他の人の行いやことばも自分の見方で悪い方に解釈してしまったり、自分の意見と違うというだけで相手を否定してしまったり、その人の言葉の出どころである「こころ」を受け止めようとせず、簡単に裁いてしまったり、実に私たちの心は頑なになりがちなのです。光は暖かく、明るく私たちを包んでくれます。やがて私たちも明るさに目がなれてくると、物の姿も、本来それが持っている色をあざやかに感じるようになります。

 イエス様は私たちの人生を照らす光です。イエス様を信じている人の特徴は明るさだと思います。「すべては神の深いあわれみによること」と、心の中心、奥底にこの光をともしている人には迷いが生じないのです。星の光に導かれて幼な子のもとにたどりついた博士たちのように、私たちもキリストを探し求めましょう。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちがイエス様と出会うことによって、見えたもの、聞こえたこと、歩み出したことは何でしょうか?

2025年12月7日
待降節第2主日  マタイ3:1~12

「悔い改めよ。天の国は近づいた」 

 いよいよ待降節を感じさせる洗礼者ヨハネの登場です。洗礼者ヨハネの役割は、預言者イザヤが語るように「主の道を整え、その道をまっすぐにすること」です。彼の活動の舞台は、町や村という人の手で作られたところではなく、荒野です。すなわち、イスラエルの人々がかつてエジプトから脱出し、神と親しく交わりながら、ある意味では厳しい試練の時を経験したところでもありました。

 洗礼者ヨハネは、イスラエルの人々に再び、神と人、人と人とが親しく交わる時が近づいていることを告げ、その準備のためにやって来ました。彼のスタイルは旧約の預言者の代名詞であるエリヤの姿を連想させます。毛衣を来て、獅子のように熱烈なメッセージを語るからです。彼のメッセージは徹底的で強烈です。イスラエルの民が荒野の旅を終えて約束の地に入った時の第一歩を記したヨルダン川、すなわち信仰の原点に帰れということを強調しています。さらに、よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。そのための斧は既に木の根元におかれている、と決断と実行を明快に訴えています。

 ファリサイ派、サドカイ派の人々に対しても遠慮会釈なく、その欺瞞を暴いています。やがて、ヘロデアンティパスの不正をも指摘し、それがために洗礼者ヨハネは逮捕されてゆきます。洗礼者ヨハネの凄みは、世の権力を一切怖れない、神様への徹底的な信頼をもっているところにあります。洗礼者ヨハネのもう一つの使命は、「後から来るお方」について、告げることです。

 イエス様はこのヨハネのもとを訪れ、洗礼を希望なさいます。ヨハネは驚いて、自分こそ、洗礼を受けるべきと思うのですが、イエス様にとっての真の洗礼は十字架と復活を意味していました。イエス様が水の洗礼を受けることによって、洗礼がイエス様の死と復活につながるものであることが明確に意義づけられたのです。こうして、イエス様の宣教活動の出発点である洗礼とその使命の到達点である十字架が一直線に結ばれるのです。私たちもクリスマスを迎えるにあたっていろいろな準備が求められています。私たちの生活、周囲の人々の中で、私たちの信仰の出発点と到達点をもう一度確認する必要があると思います。私たちの信仰の出発点、それは私たち一人ひとりが比べられない仕方で、主によって最高に愛されていることを知ること、悟ること、その愛に応えて生きることなのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちの道は「主に対してまっすぐ」でしょうか? 私たちの心はどんなところが凸凹でしょうか?

2025年11月30日
待降節第1主日  マタイ24:37~44  

 「目を覚まして用意していなさい」

 いよいよ、クリスマスに向けての準備の期間である待降節が始まります。そして、典礼暦年もA年となり、マタイ福音書が中心となって朗読配分が作成されます。待降節のテーマは「希望と信頼をもって主の訪れを待ち望む」です。主イエスの第1の来臨は、2000年前のイスラエルに実際に起こった出来事ですが、世の救いの完成の時に再びイエスは来られるのです。それゆえ、待降節第1主日の福音は、「人の子が再び来る時」について語られるのです。

 「人の子が来る時はノアの時と同じである」と主イエスは警告されています。人間のおろかさの一つは「今、あることしか見ようとしない」ところにあります。「洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」ように、私たちは、「いやなこと、めんどうなこと」は後回しにしたり、目をつぶってそれがないことのように自分をごまかそうとする傾向があります。弟子たちですら、何度もイエス様が「十字架にかかって死ななければならない」ということを話しても、受け入れることが出来ませんでした。「まさか、そんなことがおこるはずがない」と弟子たちはありのままを受け入れず、「きっとイエス様は私たちに大きな困難があるかもしれないが、がんばれと言っているのだろう」と解釈していたのかもしれません。

 「目を覚ましていなさい」と繰り返しイエス様は警告されています。そして用意していなさいとも呼びかけています。私たちが目覚め、また用意しなければならないことは地震や災害に対してのような食料や保険ではありません。それは「主に対する信頼と希望」の心です。誰でも「世の終わり」や「自分の生命の終わる時」を考えることは怖いことです。それゆえ、「主に対する信頼と希望」、すなわち、「世の終わり」を「世の救いの完成の時」、「自分の生命の終わる時」を「新しい生命の門をくぐる時」として受けとめる心を持つことが大切なのです。やるべきことをやっている人には後悔がありません。「やるべきことをまだしていない」人は、未練が残ってしまいます。今日という1日、今月というひと月、今年という1年を一生懸命生きる人には「これでよし、あとは神様にまかせよう」という安心感が生まれると思います。
 心を新たに、幼子の姿でやって来られるイエス様とともに新しい1年を歩み始めようという決意をもって待降節を始めるようにというメッセージが、今日の福音ではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*今日1日をどのような心構えで生きようと思いますか?