
今日の福音
稲川神父の説教メモ
2026年1月11日
主の洗礼 マタイ3:13~17
私たちの信仰生活の出発点は洗礼です。もちろん洗礼の以前にも神様を信じ、祈りを捧げ、キリストの福音を受け入れてはいますが、洗礼は自分一人の信仰ではなく、キリストの共同体としての信仰に入るという意味では、正式、公式、決定的、そして超自然的な恵みなのです。
イエス様も公の宣教生活のはじめを洗礼に結び付けています。ヨルダン川の洗礼者ヨハネのところにやって来られた時、洗礼者ヨハネは、驚きました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と。洗礼者ヨハネは「私の後から来る方は偉大な方で、私はその方の履物のひもをとく値打ちもない」と公言していたくらいですから。しかし、イエス様は一言、「こうすることが私たちにはふさわしいことです」とお答えになりました。すると、さすがに洗礼者ヨハネです。イエス様の言われる意味をたちどころに悟りました。
- イエス様は神のみ子です。その方が人間の仲間となるために人間の姿でこの世に来られたのは、徹底的に、完全に人間、人の子として生きることを通して、神の子となる道を人間に示すためでした。
- イエス様が水の洗礼を受けられることにより、ただの清めや洗い以上の意味が洗礼に加わりました。すなわち、イエス様の受けるべき洗礼は、十字架の苦難・死そして復活を意味していました(マルコ10:38)。こうして、イエス様が水の洗礼に新約時代の意味を加えて下さったのです。
- 水は聖書の中で様々な意味に用いられています。ある時は生命のシンボルとして、そしてある時は、清め、滅び、死のシンボルとして。イエス様は、「私は生ける水を与える」(ヨハネ4:10)と言われています。「私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語っておられます。水はイエス様の与える聖霊のシンボルとなります。
- やがて、イエス様は十字架上において、その開かれたわき腹から「血と水」を流されます(ヨハネ19:34~35)。その瞬間に弟子のヨハネは新しいアダムであるキリストのわき腹から、新約のエヴァ、キリストの伴侶であり花嫁である教会が誕生したことを悟るのです。洗礼者ヨハネが「水の洗礼」の意味を瞬時に十字架の死と復活につながるものと理解したように、弟子のヨハネもキリストの死が教会を誕生させるための道であったことを悟るのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*洗礼は古い自分に死に、新たに生まれることが求められています。
あなたは何を退け、何を受け入れて、今日を歩もうとしていますか?
*フランシスコ教皇は「パートタイマーの信者になってはいけない」と言っています。都合のよい時だけでなく、いつも変わらぬ心でいるためには?
2026年1月4日
主の公現 マタイ2:1~12
今日は降誕祭の締めくくりとなる「主の公現」の祭日です。東方教会では今でも、「主の降誕」以上に全人類の救い主が全世界に示された祭日として、荘厳に盛大に祝われています。主イエス・キリストがお生まれになった夜、最初に救い主にお会いする大きな恵みを戴いたのは、ベトレヘムの野原にいた羊飼いたちでした。彼らはイスラエルを代表する人々となります。王や貴族、学者や身分の高い人たち、金持ちではなく、イエス様と同じく、家ではなく荒れ野に暮らしている人々、貧しい暮らしをしているこの羊飼いたちが一番目にイスラエルの救い主となるお方と出会うことが神様らしいなさり方です。この幼子はやがてイスラエルを導く牧者となる方です。マタイ福音書はミカ預言書の一節を引用して語ります。「ユダの地、ベトレヘムよ、お前はユダの指導者の中で、決していちばん小さなものではない。お前から指導者が現われ、私の民、イスラエルの牧者となるからである」(ミカ5:2)
この預言のことばは、今度は東方からやって来た3人の博士を幼子イエス様に引き合わせる手がかりとなります。星に導かれ、聖書のことばによってイエス様と出会うことが出来るのです。この3人の博士の礼拝の様子を描いた絵画を見ますと、アジア・アフリカ・ヨーロッパの3大大陸の代表者として描かれたり、青年・壮年・老年という人生の3世代を表す姿で描かれたりしています。いずれにせよ、イエス様はイスラエルという唯一つの民族のための救い主としてではなく「万民の救い主」としてこの世に来られたお方であるということが、この3人の来訪と礼拝によって示されるのです。このエピソードを伝えているのはマタイ福音書だけです。そこに博士の人数は記されていませんが、黄金・乳香・没薬を捧げたため3人とされています。この3つの贈り物はそれぞれ、キリストの王権(黄金)、キリストの神性(乳香:神殿でたかれる香)、キリストの死・葬り(没薬)を象徴するシンボルとされています。
このエピソードで印象的なことは、博士たちを導いた星の話です。星という字は「日+生」が組み合わさって出来ています。つまり、生まれた日という意味があるのです。私たち人間が、「このような運命の星の下に生まれた」とか、「なくなった人は夜空の星の一つになる」と、いつの時代にも考えているのは不思議です。イエス様の生まれた時に輝いた星は、私たちに、イエス様が人類を家族とするためにお生まれになったこと、神様がつくられたこの世界を一新し、一致させるために第2のアダムとしてお生まれになったことを示すのではないでしょうか? それゆえにイエス様への捧げ物は「黄金のように朽ちることのない愛」、「苦しみの炎の中から立ち上る乳香のような希望」、「死を超えて永遠の命へと飛躍させる没薬のような信仰」なのではないでしょうか?
【祈り・わかちあいのヒント】
*今年一年、私たちはどのような信・望・愛をイエス様に捧げることが出来るでしょうか?
