
今日の福音
稲川神父の説教メモ
2025年12月14日
待降節第3主日 マタイ11:2~11
「来るべきお方とは?」
「来るべきお方はあなたですか?」という洗礼者ヨハネの質問により、イエス様ご自身の口から「メシア=救い主」の姿が説明されます。そのこたえはマタイ福音書におけるキリスト論の中核をなすものとなっています。すなわち、「①目の見えない人は見え、②足の不自由な人は歩き、③重い皮膚病を患っている人は清くなり、④耳の聞こえない人は聞こえ、⑤死者は生き返り、⑥貧しい人には福音が告げられている。⑦私につまずかない人は幸いである」という7つのことばにまとめられています。イエス様のこたえは①様々な苦しみがいやされること、②貧しい人々に福音が宣べ伝えられること、③しかし、メシアとしての使命が成就される道は人間にはつまずきとなるような仕方であることという3つに大別されます。様々な肉体的な苦しみ(病気や死)は、人間の罪の状態をシンボリックに表しており、それらのものからの解放は、悪の力、罪の支配から神の愛、恵みの支配のもとに贖い出す神の国の到来のしるしとして描かれています。
旧約聖書の思想の特徴は、人が罪によって盲目となるという考え方です。「欲に目がくらむ」という表現が日本語でもあるように、自己中心的な心にとらわれる人間は周りのことが見えないために罪を犯すことになるのです。イエス様がファリサイ人たちに「あなたたちは見えると言っていることに罪がある」(ヨハネ9:35~41)とおっしゃるのはこのためです。真の光であるキリストに心を開かなければ、私たちはこの世界、自分の人生をどのように歩むべきかさえ、見出すことができないのです。見るとは物理的に見ることではなく、現実の出来事の中に、神のみ旨を悟ることなのです。しかし人間には「光より闇を好む」(ヨハネ3:19)という傾きがあります。他の人の行いやことばも自分の見方で悪い方に解釈してしまったり、自分の意見と違うというだけで相手を否定してしまったり、その人の言葉の出どころである「こころ」を受け止めようとせず、簡単に裁いてしまったり、実に私たちの心は頑なになりがちなのです。光は暖かく、明るく私たちを包んでくれます。やがて私たちも明るさに目がなれてくると、物の姿も、本来それが持っている色をあざやかに感じるようになります。
イエス様は私たちの人生を照らす光です。イエス様を信じている人の特徴は明るさだと思います。「すべては神の深いあわれみによること」と、心の中心、奥底にこの光をともしている人には迷いが生じないのです。星の光に導かれて幼な子のもとにたどりついた博士たちのように、私たちもキリストを探し求めましょう。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちがイエス様と出会うことによって、見えたもの、聞こえたこと、歩み出したことは何でしょうか?
2025年12月7日
待降節第2主日 マタイ3:1~12
「悔い改めよ。天の国は近づいた」
いよいよ待降節を感じさせる洗礼者ヨハネの登場です。洗礼者ヨハネの役割は、預言者イザヤが語るように「主の道を整え、その道をまっすぐにすること」です。彼の活動の舞台は、町や村という人の手で作られたところではなく、荒野です。すなわち、イスラエルの人々がかつてエジプトから脱出し、神と親しく交わりながら、ある意味では厳しい試練の時を経験したところでもありました。
洗礼者ヨハネは、イスラエルの人々に再び、神と人、人と人とが親しく交わる時が近づいていることを告げ、その準備のためにやって来ました。彼のスタイルは旧約の預言者の代名詞であるエリヤの姿を連想させます。毛衣を来て、獅子のように熱烈なメッセージを語るからです。彼のメッセージは徹底的で強烈です。イスラエルの民が荒野の旅を終えて約束の地に入った時の第一歩を記したヨルダン川、すなわち信仰の原点に帰れということを強調しています。さらに、よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。そのための斧は既に木の根元におかれている、と決断と実行を明快に訴えています。
ファリサイ派、サドカイ派の人々に対しても遠慮会釈なく、その欺瞞を暴いています。やがて、ヘロデアンティパスの不正をも指摘し、それがために洗礼者ヨハネは逮捕されてゆきます。洗礼者ヨハネの凄みは、世の権力を一切怖れない、神様への徹底的な信頼をもっているところにあります。洗礼者ヨハネのもう一つの使命は、「後から来るお方」について、告げることです。
イエス様はこのヨハネのもとを訪れ、洗礼を希望なさいます。ヨハネは驚いて、自分こそ、洗礼を受けるべきと思うのですが、イエス様にとっての真の洗礼は十字架と復活を意味していました。イエス様が水の洗礼を受けることによって、洗礼がイエス様の死と復活につながるものであることが明確に意義づけられたのです。こうして、イエス様の宣教活動の出発点である洗礼とその使命の到達点である十字架が一直線に結ばれるのです。私たちもクリスマスを迎えるにあたっていろいろな準備が求められています。私たちの生活、周囲の人々の中で、私たちの信仰の出発点と到達点をもう一度確認する必要があると思います。私たちの信仰の出発点、それは私たち一人ひとりが比べられない仕方で、主によって最高に愛されていることを知ること、悟ること、その愛に応えて生きることなのではないでしょうか?
【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちの道は「主に対してまっすぐ」でしょうか? 私たちの心はどんなところが凸凹でしょうか?
