今日の福音

稲川神父の説教メモ

2025年11月23日
王であるキリスト ルカ23:35~43

 1年の典礼暦年を締めくくる最後の主日は、「王であるキリスト」の祭日と呼ばれています。キリストが「王」であるというイメージは現代人には分かりにくいものかもしれませんが、メシアであり、王であるという名称は、あの大天使ガブリエルのお告げのことばにも表れています。「主は彼にその父ダビデの王位を与えられる」(ルカ1:32)と聖母マリアに伝えています。さらに、ベトレヘムの羊飼いたちに出現した天使も「救い主(メシア)」の誕生を告げ知らせています(ルカ2:11)。タボル山における変容の時には、御父自らが「これこそわが子、わたしの選んだ者。これに聞け」と宣言されています。この「選ばれた者」という呼び名は洗礼・変容・死去などの重要な場面に現われ、いつも「主のしもべ」の姿を想起させます。父なる神はこの名称でイエスを呼ぶことにより、アブラハムとイスラエル民族の選びをもって始められた救いの歴史が、ナザレのイエスにおいて完成することを意味しているのではないでしょうか?

 さて、ルカ福音書では、あの十字架上でさえも持っておられた、イエス様だけが持つ、限りないやさしさ、その愛の深さを示すことばを豊富に記しています。ゴルゴダに向かう途中、嘆き悲しむ婦人たちを慰めるイエス様は、いよいよご自分を十字架に釘付けにしようとする死刑の執行人のためには「父よ、彼らをおゆるし下さい。何をしているか自分ではわからないのです」ととりなしの祈りを捧げています。

 イエス様の十字架の前には3種類のあざける人々がいたことを伝えています。まずユダヤ人の指導者たちで、「他人を救ったのだ、もし神のキリスト(メシア)で選ばれた者ならば自分を救ってみせよ」とあざけり、そして異邦人を代表するローマの兵士たちは「ユダヤ人の王なら自分を救え」と、そして、イエスと同じく十字架につけられた盗賊の一人も「お前はキリスト(メシア)ではないか、自分とおれたちを救ってみろ」と悪口を言っています。それに対するように、イエス様の十字架の前には、イエス様を「真の救い主、キリスト、神の子」であると気がついたもう3種類の人々がいます。それは、同じく十字架につけられたもう一人の盗賊であり、彼は「あなたの御国にお出でになるとき」と述べ、イエス様が王であること、選ばれた者であることを宣言しています。また、ローマの百人隊長は「この人は本当に正しい人であった」とイエス様を賛美し、民衆たちは「胸を打ちながら帰っていった」ことにより、イエス様に共感していることが記されています。天の父がお告げの時、洗礼の時、変容の時に宣言されたことが今、イエス様の十字架の出来事において、この3種類の人々により人間の心、口、行いにおいて表されました。十字架において、イエス様は天(父なる神)と地(人間の世界)の間で至高の存在(王)として世に示されたのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたにとって、この1年の信仰の実りは何でしょうか?

2025年11月16日
年間第33主日  ルカ21:5~19

 年間と呼ばれる主日もいよいよ今日の日曜日で終わります。その次の日曜日は「王たるキリスト」の祭日が祝われ、今年の典礼暦が締めくくられ、新たな典礼暦年の始まりとなる待降節がスタートします。さて、年間主日の最後の頃には毎年、福音書の中の小黙示録と呼ばれる終末の有り様が語られます。確かに歴史的に見ても、西暦70年にはのちにローマ皇帝になるティトゥスによりエルサレムは陥落し、イスラエルはそれから再び流浪の民となり、第二次世界大戦後に現在のイスラエルという国家が建国されるまで国土・領土をもたない民でした。

 ルカ福音書が書かれたのは、ちょうど、そのような危機が迫っていた頃です。それゆえ、イエス様が言われたことが弟子たちの心には「古きイスラエル」から「新しき神の民」への大変革として映ったことと思います。

 多くのユダヤ人にとって神殿は、彼らの誇りであり、この神殿がある限りイスラエルは絶対に滅びることがないという確信を持っていました。しかし、イエス様にとっては神殿とは「神様のおられるところ」という意味であり、ご自分のことを指して言われています。「この神殿を倒してみよ、私は3日でこれを建て直す」と。また、キリスト者の共同体も「聖霊の神殿」と呼ばれます。事実、初代教会は4世紀に至るまで建物としての聖堂や神殿をもたずに宣教活動を続け、成長してきました。

 エルサレムの崩壊は、ユダヤ人にとってだけでなく、キリスト者にとってもいよいよ「世の終わり」を思わせる出来事であったことと思います。しかし、イエス様のことばをよく読むとそれは「世の終わり」そのものではありません。戦争、暴動、飢饉、天災はいつの時代にもあることであると述べられているのです。大切なことは「世の終わり」ではなく、「救いの完成」の時が近づいていることを悟ることなのです。多くの悲劇的な出来事、天変地異だけでなく、人間が引き起こす悲劇が起こりますが、それらによって絶望するのではなく、「神様のご計画がこれらの悲劇によって破壊されること、失敗することはありえない」という信仰と希望と忍耐が必要とされることをイエス様は力強く述べておられます。

【祈り・わかちあいのヒント】
*この世で神を見た人はいません。しかし、「人間は死んだらどうなるか?」ということを考えたことのない人間もまたいません。あらゆる宗教は生の世界と死後の世界を結ぶ何かを語ります。キリスト教では何を教えていますか?

2025年11月9日
ラテラノ教会の献堂 ヨハネ2:13~22  

 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直す」

 先週の死者の日に続いて、11月の第2の日曜日は年間主日に代わり、特別な記念の日として祝われます。それはラテラノ教会の献堂です。ラテラノ教会といえばローマの4大バジリカの一つですが、何故この教会の献堂が全教会で記念されるのでしょうか? それは、この聖堂がキリスト教の歴史の中で特別な意味を持つ教会だからです。313年ローマ皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教をローマ帝国の一つの公認された宗教として認めたのです。ローマ帝国は地中海一帯に広がる大きな国でした。多民族・多文化・多言語であることを超えて一つの国家であるという点で、人類初のコスモポリタンでした。元来、宗教についても寛容であり、ローマ皇帝への忠誠を表す皇帝の像への礼拝さえ認めれば、その宗教は公認されていました。

 初代教会は皇帝を神聖視せず、尊敬はしても礼拝はしませんでした。皇帝はあくまでも人間に過ぎなかったのです。また、当時の多くの宗教は神像に対して貢物を捧げたり、にぎやかな祭典を行なったりするのが通例で、神殿をもっており、そこでのみ宗教行事を行なっていたのです。キリスト者たちの信仰はこれらの宗教とは異なりました。神殿や像は持たず、祭礼のようなことは行なわず、政治的な秘密結社のように思われ、政府を転覆させることをたくらんで集会をしている連中と思われたのです。長い迫害の時代をへて、ようやくコンスタンティヌス皇帝はキリスト教を認めました。そして、自分の領地を提供し、教会を作るよう援助したのです。こうして、ラテラノ教会は首都ローマと地上のすべての教会の母であると言われるようになりました。

 今日の福音においては、イエス様がエルサレムの神殿を過激な方法で清められ、ご自分と教会の関係を語られています。キリストとわたしたちの結びつき、教会の建物と生きた共同体の関係が語られます。どんなに華麗で壮大な建物を建てたとしても、そこに信仰をもった人々が集い、正しい礼拝を捧げ、本来の祈りで信仰を生きなければ、聖堂は単なる建築物に過ぎないのです。キリストの体、聖霊の神殿となるためには、わたしたちとキリストがともにいること、ともに祈り、ともに働き、ともにわかちあうことが必要です。当時のキリスト教徒について、「彼らがどれほど愛し合っているかを見なさい。彼らはわたしたちの仲間さえ世話をしてくれている」とキリスト教徒でない人々によって指摘されているほどです。これがキリスト教に勝利をもたらした秘訣です。力による勝利ではなく、愛と真実の生き方がローマ帝国にキリスト教を認めさせたのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*教会が共同体であるために必要なことは何でしょうか?

2025年11月2日
死者の日 ヨハネ6:37~40

 「わたしの父のみこころは子を信じる者がみな永遠の命を得ることである」

 11月1日は諸聖人の日として、キリスト教国においては守るべき祝日となっております。また年間主日の最後を締めくくる「王たるキリスト」は終末すなわち神の国の完成の時、そして最後の審判の時を思い起こさせます。この11月は死者の月と呼ばれ、諸聖人に続いて、2日はすべての死者のために捧げられた日となっています。歴史的には998年にクリュニー修道院のオディロンによって始められたものであり、11世紀にはローマ教会に広く行なわれるようになっていました。

 さて、死者の日の福音はヨハネ6章から朗読されます。そこには「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」と語られています。復活とはラザロのよみがえりのように今地上にあるこの姿に戻るということではありません。人の子でありながら、イエス様と同じく神の子としての栄光をわたしたちが戴くことです。

 イエス様はこのようなすばらしい恵みに多くの人を与らせるために、神の子でありながら、人の子としてこの地上に生まれ、わたしたちに神の子として生きる道を教えられ、さらにはアダムの原罪によって閉ざされていた天の門を自らの命を十字架において捧げることにより開いて下さったのです。こうして、キリストを信じる者にとって死は終わりではなく生命への新たなる門となり、この世の生活を終わった後にも天に永遠の住家が備えられているのです。死それはわたしたちのこの地上の誕生と同じく、神様が与えてくださるものとして受け止めるのです。事実、わたしたちは自分の生涯においては一日が過ぎ去れば、その一日をもう一度、生きることは出来ないのです。その意味でわたしたちは毎日、一日ずつ死んでゆくのです。それは決して怖いことではなく、むしろその一日を無意味に過ごしてしまうことをこそ、恐れるべきなのです。

 死者の日、それは単なる悲しみや追悼の意味だけではなく、生命の与え主であるお方、父の御心を知り、キリストのようにその御心を行なう人こそ、天に生まれる人となることを思い起こす日ではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしが天国に持ってゆけるものはなんでしょうか?

2025年10月26日
年間第30主日  ルカ18:9~14

 今週もルカ18章に記されている祈りに関するたとえ話で、その2つ目のものです。真の祈りとはどのようなものか、祈りがへりくだる心で神のあわれみに生かされているものでなければならないということが、このたとえ話を通して示されています。二人の祈りはあらゆる点で対照的です。ファリサイ人にとって神殿に来ることは誇りであり、歓びです。彼は立ち上がって祈ります。彼の祈りは一見すると感謝のように見えますが、彼が感謝の理由として述べていることは「神様がしてくださったこと」ではなく「自分が行ったこと」です。彼の祈りのことばには「私が」「私が」と自分しかありません。さらに決定的なのは兄弟(他者ではあっても決して他人ではない人間)に対するいたわりや思いやりがありません。律法社会の落伍者、弱い立場にある人々の生活、生きることの難しさ、傷ついた心に対する感受性が欠けています。彼は自分自身もそのような弱さを持っていること、罪の現実に自分も取り巻かれ、おびやかされていることを忘れてしまっています。

 イエス様は祈りの3つの条件(マタイ6:5~15)の中に、兄弟に対する愛と赦しを要求しています。祈る時、兄弟に対する愛が欠けていれば、神様からも退けられてしまうのです。弱さの中にいる他の人々をあざけることなく、その人々の苦しさ、悲しさを自分の身に負うことこそ、神様の求めるものなのです。

 もう一人の人、徴税人の祈りは何故、聞き入れられたのでしょうか? 徴税人の祈りは「神よ、罪人である私をあわれんで下さい」というただ一言でした。彼はファリサイ人のように自分を誇るものを何一つ持たず、堂々と前に進み出ることも、まっすぐに天を見つめることも出来なかったのです。彼に出来ることは、自分の罪についてあれこれと弁解することではなく、みじめな自分、言い訳できないほど汚れている自分の姿を神様の前に投げ出すことだけでした。この罪に汚れ、不安、苦しみ、孤独にさいなまれ傷ついて、苦しんでいる自分を救えるのは、「神様、あなただけです」と彼は表明しているのです。

 この一言の祈りはイエス様の示す祈りの3つの条件(マタイ6:5~15)を満たしているのです。すなわち、彼は見せびらかすためでなく(第1の条件)、くどくどと言うことなく(第2の条件)、神への信頼にすべてを委ね(主の祈り)、兄弟に対して犯した罪に対する痛悔の心(第3の条件)を表わしています。私たちの発言、意見、考え方は、この徴税人のようにへりくだったものでしょうか? それともファリサイ人のように「私が、私が」という傾向が見られるでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちのよく祈ること、あまり祈らないことはどんなことでしょうか?