
今日の福音

稲川神父の説教メモ
2025年6月22日
キリストの聖体 ルカ9:11b~17
聖霊降臨の主日の後に、神の救いのみわざ全体を統合するテーマとして「三位一体」「キリストの聖体」を祝う主日が続きます。今日の福音の朗読箇所は、5000人にパンを与える奇跡のエピソードですが、ルカ9章16節のイエス様のことばと行いは、新約聖書全体では10回も記述されているものです。そしてルカ福音書では特に次の点が特徴となっています。【祈り・わかちあいのヒント】
- 神の国について語り、人々をいやすイエス様(11節)
ご自分を求めるすべての人々を迎え、受け入れるイエス様の優しい愛、イエス様における神の国の現存、イエス様によるいやしを、一連のものとして考えています。すなわち、「神の国」とは「神の愛と恵みの場」であり「イエス様自身」こそ、その見える姿であり、それを「聖体」として、すなわちあらゆる時代のキリスト者へ与えようとするイエス様の姿が描かれています。あらゆる時代のキリスト者が「イエス様のことばと行い」を繰り返すとき、イエス様はその中におられるのです。イエス様とともにいる豊かさは12のかごに用意されているように、さらに多くの人々のために与えられるものなのです。- 弟子たちのことば、群衆への心遣い(12節)
「もはや日が傾きかけた」ので、弟子たちは集まった人々の食事や「宿」のことを心配してイエス様に語りかけました(ルカ24章のエマオの弟子たちに現れたイエス様を連想させることばです)。ここは人里離れたところ、イスラエルの先祖たちが歩んだ荒野の旅の間、天からのパンがイスラエルの人々の命を支えたように、イエス様はご自身を求め、信じて従ってきた人々に、天からのパン=ご自身を与えようとするのです。- イエス様のチャレンジと弟子たちのこたえ(13節)
イエス様は弟子たちの提案に対して不思議なことを命じられます。すなわち、「あなたたちが食べるものを与えなさい」と。「5つのパンと2匹の魚しか、手元にありません」という弟子たちのこたえは正直であり、また現実的であり、人間の力ではこのチャレンジにこたえようもないことが感じられます。イエス様はただ一人でこのことを解決しようとはなさらず、弟子たちをご自分のなさろうとする救いのわざに参加させようとしているのです。弟子たちは、イエス様に命じられたように人々を50人、100人の組にしてすわらせました。イエス様が祝福して裂かれたパンを、人々一人ひとりの手に渡してゆきました。パンは力の泉(詩104:14~15)、神のことば(アモス8:11)、神の恵み全体のしるし(ルカ11:3)、イエス様ご自身(ヨハネ6:35)のシンボル。
*今、私たちの手元にある5つのパンと2匹の魚は何でしょうか?
2025年6月15日
三位一体の主日 ヨハネ16:12~16
四旬節から復活祭、そして聖霊降臨という大きな典礼の季節を締め括るのは、今週と来週の2回の主日です。そのテーマは「三位一体」と「キリストの聖体」です。実は、この2つのテーマは救いの歴史全体をあらわすキーワードなのです。したがって、別々の主日ではなく、三位一体と聖体には深いつながりがあるのです。
この日曜日のテーマである「三位一体」は実はミサとの関連があります。初代教会の人々は「父と子と聖霊」をすでに実感し、信仰を持っていましたが、それが理論化され、体系化されてゆくには時間がかかりました。その歴史のあいだには、キリストの神性を疑問視したり、反対にキリストの人性を疑問視したり、聖霊だけを切り離して強調する人々があらわれたりし、15世紀のフィレンツェ公会議においてようやく神学的な理論が定まりました。三位一体の主日がカトリック教会全体で祝われるようになったのは10世紀ごろからです。そして、三位一体の信仰が教会の教えの根本であることを明確にするために、ミサを「十字架のしるしと三位一体への信仰告白のことば」で始めるという習慣が、ここからスタートしたのです。私たちキリスト者にとってはごく日常的な動作ですが、キリスト者ではない人々にとっては、この動作をしているキリスト者を見る時に新鮮な驚きを感じるようです。
さて、三位一体の神について論理的な叙述はおよそ不可能です。むしろ、三位一体の特徴を受け止めることに心を向けてみましょう。神さまの本性は「愛」なるお方ですから、三位一体を説明するには「愛」を手がかりにすることがふさわしいと思います。愛は一人では成り立ちません。また自己愛は不完全な愛ですから、愛には対象が必要です。父と呼ばれる存在と、その父の愛を完全に受け入れる子という存在の間に共有される愛こそ、聖霊と呼ばれるお方です。父と子の両者の間だけでは愛は完結しません。愛は、両者が心をあわせて共通の方向に向かう時に完全なものとなります。父と子より出でて神様の愛の対象となる存在、すなわち私たち人間に神様の愛が遣って来られるのです。それが人となった神の子、イエス様であり、イエス様と御父の持つ完全な愛の心を私たちに与えることのために、十字架という完全な従順、祈り、信仰の姿が示されるのです。そして、イエス様の後に従って十字架の道を歩ませるよう力づけ、イエス様のことを絶えず思い起こさせるのが聖霊の働きです。聖霊は私たちの中に留まり、私たちを父と子の愛の交わりの中に引き上げてゆくお方なのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*祈りのはじめに「父と子と聖霊のみ名によって」と十字のしるしをするのはカトリックだけで、プロテスタントでは行なっていないのは何故でしょう?