今日の福音

稲川神父の説教メモ

2026年3月8日
四旬節第3主日 ヨハネ4:5~42

 さて、四旬節も第3週に入ります。これから3つの日曜日にヨハネ福音書が朗読されてゆきます。それらはいずれも有名な箇所です。今日は第4章のサマリアの女性との対話です。ヨハネ福音書の特徴の一つは女性たちの活躍です。

 第2章では聖母マリアがカナの婚礼における最初のしるしと深く関わっており、また第4章のサマリアの女性との対話は、第3章のニコデモとの対話とペアになっている大切な対話です。また第8章の姦淫の女性、第11章のマリアとマルタの兄弟ラザロのよみがえり、第19章の十字架の下に立つ聖母マリア、第20章の復活したイエス様に出会うマグダラのマリアと、様々な女性たちとイエス様の関わりにヨハネは注目しています。

 サマリアの女性とイエス様の対話は何気ないことばで始まります。「水を飲ませて下さい」とイエス様の方から声をかけられます。サマリアの女性はユダヤ人の男性から声をかけられて、いささか当惑、迷惑という気持ちで応えます。イエス様はサマリアの人々、女性だからということでわけへだてをするような方ではありません。このイエス様の一言から対話は始まってゆきます。

 最初はこの女性はイエス様をからかうような調子で応えています。「この井戸は深いのです。あなたは汲むものをもっておられません」「またここに水を汲みにこなくてすむように、その水をください」とイエス様のことばをからかうような口調で応えています。

 ところが、イエス様は深いあわれみのまなざしで、彼女の深く傷ついている魂に触れます。「あなたには5人の夫がいたが今連れ添っている人はあなたの夫ではない」と。彼女は見ず知らずのこの人が何故そのようなことを知っているのか!と驚きます(この部分は朗読箇所からカットされていますが……16節~19節)。この一言からサマリアの女性はイエス様のことを預言者だと思います。イエス様はご自分が預言者以上の者、すなわちメシアであることを言い表します。やがて、この女性は走ってゆき、イエス様のことを町中の人々に告げます。この女性の積極的で果敢な行動により、町の人々の多くがイエス様を信じ、自分たちのところにとどまるように願います。たった一人の女性がイエス様に会った感動、体験をためらわずに語ったゆえに……。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私はどんなことに渇いているでしょうか?
*私は日常生活の中でイエス様に出会っているでしょうか?

2026年3月1日
四旬節第2主日 マタイ17:1~9

 毎年、四旬節の第2主日には、ご変容の箇所が朗読されます。エスドレロン平野の東部にぽつんと立っているタボル山がご変容の行われた山と言われています。今日でもタボル山の頂上にはご変容を記念する教会が建っています。その聖堂の内部の4つの壁にモザイク画が飾られています。そこにはイエス様の4つの姿が描かれています。小羊の姿、ご聖体の姿、十字架の姿、復活の姿だったと思います。

 イエス様が十字架にかかって死ななければならないこと、しかし、3日目に復活することを弟子たちに話されましたが、弟子たちはこれを受けとめることが出来ませんでした。それゆえ、3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登りました。そして、そこで、人の子であるイエス様が「神の子」としての栄光、すなわち十字架の後に現れる復活の栄光の姿をお見せになったのです。その素晴らしさは、ペトロのことばに表れているように「もう、どこにも行きたくない、ここに留まるために家を建てましょう」と言わしめるほどでした。つまりペトロは「これ以上、素晴らしいことはないだろう、わざわざエルサレムで死ななければならないなどということは必要ないのでは?」と思ったのかもしれません。

しかし、雲の中から響いた声は、「これは私の愛する子、これに聞き、従いなさい」という内容でした。このことばは神様の救いの計画が十字架にあることを意味し、イエス様はわたしたちにも十字架を負ってご自分の後に従いなさいと命じられています。 このご変容の出来事には大切なメッセージがあります。

イエス様は様々な姿で私たちの前におられる。
私たちは3人の弟子たちのようにイエス様の素晴らしい栄光の姿を垣間見ることがある。
しかし、私たちはイエス様の素晴らしさの全体をまだ知らない。
それゆえに、私たちはイエス様の声に耳を傾けなければならない。
イエス様が十字架を避けなかったように、私たちも自分の十字架を引き受けなければならない。
イエス様は私たちのいつも1歩先におられる、ここで留まろうとしてはならない。
この栄光を理解するには時間がかかることを忘れてはならない。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私がイエス様に魅かれるのは何故でしょうか?
*私がペトロだったら何を思い、何を語り、何をするでしょうか?

2026年2月22日
四旬節第1主日 マタイ4:1~11

 灰の水曜日からいよいよ四旬節が始まりました。四旬節はキリストの受難を思い起こし、それに生きる期間ですが、聖書はキリストの受難と復活を切り離すことはありません。「苦しみを経て栄光へ」これは聖書全体の教えですが、特に四旬節の主日の朗読テーマとなっています。「四旬節の典礼を通して、キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。日々、キリストのいのちに生きることができますように」と集会祈願で祈ったことを思い起こして下さい。キリストのいのちに生きるために今日もみことばに耳を傾けましょう。

 さて、四旬節第1主日の福音は毎年、あのイエス様が試練と誘惑に打ち勝つ姿が朗読されます。第1の誘惑は「パンの誘惑」と呼ばれています。これは第1朗読の創世記のアダムの誘惑の物語と関連しています。アダムたちが禁じられていることを知りながらその実に手を伸ばしてしまったわけは「これを食べれば目が開け、神のように見える」ということにありました。ことばを換えて言えば、アダムたちは「自分の力で神様のようになること」、「自分を神にすること」すなわち「自分が望むように行いたい」という自己中心を正当化したような欲望を世界の中心にすえてしまったのです。そこからこの世界はおかしくなってゆくのです。人間が人間を自分の欲望を果たすための道具にしてしまうような世の中が始まってゆくのです。

 悪魔はたくみに誘います。「イエス様、あなたは神の子ですよ。何でも望みどおりにできる力を持っておられます。ですからそれを望むままにお使いになったらどうですか? あなたは神の子なのですから、なにも苦労するようなことをしなくてもいいのではないですか?」というような調子です。自分の持っている物やお金や力を自分の為に用いることは、人間の世界では誰もとがめることが出来ないほど正当なこと……のはずですが、イエス様のこたえは違います。「人はパンのみにて生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」とのことでした。マタイ福音書は特に「一つ一つのことばによって」と強調しています。イエス様は悪魔の誘惑に対抗するために「聖書のことば」を引用しておられます。これは私たちが誘惑に対抗しようとする時にも有効な手段だと思います。自分の知恵や考え方、意見で対抗しようとしてもすぐに負けてしまいます。しかし、聖書のことば、神様のことばで自分を支えて戴くならば、違ってくるのではないでしょうか? 「自分の持っているものを自分の為に使いなさい」とこの世の価値観はそれをよしとしますが、イエス様はなんと「それが神様の御心にかなうことなのかをまず考えなさい」と勧めているのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私を生かして下さる神様のことばはなんでしょうか?
*私がいつもおちいりやすい誘惑はどんなことでしょうか?

2026年2月15日
年間第6主日  マタイ5:17~37

 今日の福音朗読は山上の垂訓の中で、厳しい調子で語られている箇所です。一見するととても不可能なことのようにさえ思える戒めが続いています。これらのことばは一体何を示しているのでしょう。そのヒントは第1の部分にあります。イエス様は「律法を完成させるために来られたお方なのである」ということです。旧約の律法は、どんなに厳しくとも「人の心」ではなく、「人の行い」を規制するものでした。ある人を心の中で憎いと思っても、悪口や暴行という実力行使をしなければ、律法では罰されることはありません。しかし、イエス様は悪口や暴行という行為がなくても、その人を憎むという「心の状態」を問題にされているのです。

 イエス様のことばは単なる処世訓ではありません。罪を犯させるきっかけとなるものや躓きを起こさせるものをするどく「えぐり出せ」というのは、人間には遵守不可能な命令にさえ感じますが、一方でイエス様は姦通の現場でとらえられた女性(ヨハネ8:1~11)に対しては「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」と言っておられます。イエス様は人間の仕出かす悪や罪は憎まれますが、罪を犯す人そのものを憎むことはないのです。

 ここに福音があるのです。私たちがどのような罪を犯しても、愛である神は罰することよりも赦し、立ち直ることを望んでおられることを、イエス様ははっきりと語られているのです。本当に自分の罪を悔いている人は、同じような過ちを繰り返すことはしたくありません。それならばどうすればよいのでしょうか? それはイエス様と一緒に歩むことを決意すべきなのです。人間は自分の心でありながら、自分の努力によってこれを変えることはできません。人間の心を変えることが出来るのは人間に心を与えた神様だけなのです。それゆえに罪を犯したくないと思うならば、イエス様と一緒に歩む必要があるのです。ただお一人イエス様だけが、父なる神のみ旨に従ってどんなことでもなされるお方なのですから。いつでもイエス様には「はい」とだけ答える決意が必要なのです。私たち人間の現実生活では、いつも言い訳や正当化というものがつきまといます。しかし、神様の前でそのような言い訳は不要であり通用しないのです。それでも私たちの言い訳を神様はじっと聞いて下さることでしょう。しかし神様はきっと悲しそうな顔をなさるでしょう。そしてそれでも赦して下さるでしょう。だからもう二度と神様に悲しい顔をさせたくないと考える人は幸いな人だと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちが「はい」と言うべきことはどんなことでしょうか?
*私たちが「いいえ」と言うべきことはどんなことでしょうか?

2026年2月8日
年間第5主日  マタイ5:13~16

「あなたがたは地の塩、世の光である」

 山上の垂訓には、日本人にもよく知られている聖書のことばが度々登場しますが、今日の箇所もその一つではないでしょうか? 「あなたがたは地の塩である」とのイエス様の教えは何を私たちに示唆するものでしょうか。

 まず、このことばを聞く時、幼いイエス様が台所でお料理をしているマリア様のそばに立って、見ているような場面が想像されます。「塩はとっても大切なもの、味をつけたり、人間の体に必要なもの、でも多すぎても料理全体がダメになってしまうものなのよ」とお母様であるマリア様が語っているような風景が目に浮かんできます。

 私たち地球上の生物はみな、水と塩というものが不可欠なのです。多くの生物が海という塩を含む水から誕生したこと、胎児が子宮の中で育ってゆくときの羊水が海の水とほぼ同じ塩分、ミネラルのバランスであることを考えても、塩の役割は大変重要なのです。

 塩の役割は、①味をつける ②清めに用いる ③呪いを意味するなど、聖書の中でもいろいろな使用例があります。味付けということを考えてみると、塩のもつおもしろい性質に対比作用というものがあります。他の味の中に塩がほんの少量入ることによって、塩の味はわからないのに、その他の味が強く感じられるということです。わかりやすい例としては、お汁粉を作る時、砂糖の他にほんの少々の塩を加えることによって、お汁粉の甘さが増すのです。

 「あなたがたは地の塩」とイエス様が言われたとき、「あなたがたのことばや行ないは、あなたがた自身を目立たせるためのものであってはならない。むしろ隠れて、しかし、みんなのために、みんなを生かすという隠れた働き方こそキリスト者として必要なこと、大切なことなのだ」という意味もあったのではないでしょうか? 塩は隠し味として用いられる時にこそ、その力が大きく現れるのです。反対に塩の味がのさばると、顔をしかめられた上に、その食べ物の味さえ、壊してしまい、ひどいときにはもう食べられやしないとすべてが捨てられてしまうことさえあるのです。皆様! ご用心! 私たちが「いいこと」と思っても、隠し味としてみんなを生かしているか、それとも……

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちは「隠し味」としての塩の役割を果たしているでしょうか?
*塩が味を失う時とは、私たちがどのような状態の時でしょうか?