今日の福音

稲川神父の説教メモ

2025年12月7日
待降節第2主日  マタイ3:1~12

「悔い改めよ。天の国は近づいた」 

 いよいよ待降節を感じさせる洗礼者ヨハネの登場です。洗礼者ヨハネの役割は、預言者イザヤが語るように「主の道を整え、その道をまっすぐにすること」です。彼の活動の舞台は、町や村という人の手で作られたところではなく、荒野です。すなわち、イスラエルの人々がかつてエジプトから脱出し、神と親しく交わりながら、ある意味では厳しい試練の時を経験したところでもありました。

 洗礼者ヨハネは、イスラエルの人々に再び、神と人、人と人とが親しく交わる時が近づいていることを告げ、その準備のためにやって来ました。彼のスタイルは旧約の預言者の代名詞であるエリヤの姿を連想させます。毛衣を来て、獅子のように熱烈なメッセージを語るからです。彼のメッセージは徹底的で強烈です。イスラエルの民が荒野の旅を終えて約束の地に入った時の第一歩を記したヨルダン川、すなわち信仰の原点に帰れということを強調しています。さらに、よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。そのための斧は既に木の根元におかれている、と決断と実行を明快に訴えています。

 ファリサイ派、サドカイ派の人々に対しても遠慮会釈なく、その欺瞞を暴いています。やがて、ヘロデアンティパスの不正をも指摘し、それがために洗礼者ヨハネは逮捕されてゆきます。洗礼者ヨハネの凄みは、世の権力を一切怖れない、神様への徹底的な信頼をもっているところにあります。洗礼者ヨハネのもう一つの使命は、「後から来るお方」について、告げることです。

 イエス様はこのヨハネのもとを訪れ、洗礼を希望なさいます。ヨハネは驚いて、自分こそ、洗礼を受けるべきと思うのですが、イエス様にとっての真の洗礼は十字架と復活を意味していました。イエス様が水の洗礼を受けることによって、洗礼がイエス様の死と復活につながるものであることが明確に意義づけられたのです。こうして、イエス様の宣教活動の出発点である洗礼とその使命の到達点である十字架が一直線に結ばれるのです。私たちもクリスマスを迎えるにあたっていろいろな準備が求められています。私たちの生活、周囲の人々の中で、私たちの信仰の出発点と到達点をもう一度確認する必要があると思います。私たちの信仰の出発点、それは私たち一人ひとりが比べられない仕方で、主によって最高に愛されていることを知ること、悟ること、その愛に応えて生きることなのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちの道は「主に対してまっすぐ」でしょうか? 私たちの心はどんなところが凸凹でしょうか?

2025年11月30日
待降節第1主日  マタイ24:37~44  

 「目を覚まして用意していなさい」

 いよいよ、クリスマスに向けての準備の期間である待降節が始まります。そして、典礼暦年もA年となり、マタイ福音書が中心となって朗読配分が作成されます。待降節のテーマは「希望と信頼をもって主の訪れを待ち望む」です。主イエスの第1の来臨は、2000年前のイスラエルに実際に起こった出来事ですが、世の救いの完成の時に再びイエスは来られるのです。それゆえ、待降節第1主日の福音は、「人の子が再び来る時」について語られるのです。

 「人の子が来る時はノアの時と同じである」と主イエスは警告されています。人間のおろかさの一つは「今、あることしか見ようとしない」ところにあります。「洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」ように、私たちは、「いやなこと、めんどうなこと」は後回しにしたり、目をつぶってそれがないことのように自分をごまかそうとする傾向があります。弟子たちですら、何度もイエス様が「十字架にかかって死ななければならない」ということを話しても、受け入れることが出来ませんでした。「まさか、そんなことがおこるはずがない」と弟子たちはありのままを受け入れず、「きっとイエス様は私たちに大きな困難があるかもしれないが、がんばれと言っているのだろう」と解釈していたのかもしれません。

 「目を覚ましていなさい」と繰り返しイエス様は警告されています。そして用意していなさいとも呼びかけています。私たちが目覚め、また用意しなければならないことは地震や災害に対してのような食料や保険ではありません。それは「主に対する信頼と希望」の心です。誰でも「世の終わり」や「自分の生命の終わる時」を考えることは怖いことです。それゆえ、「主に対する信頼と希望」、すなわち、「世の終わり」を「世の救いの完成の時」、「自分の生命の終わる時」を「新しい生命の門をくぐる時」として受けとめる心を持つことが大切なのです。やるべきことをやっている人には後悔がありません。「やるべきことをまだしていない」人は、未練が残ってしまいます。今日という1日、今月というひと月、今年という1年を一生懸命生きる人には「これでよし、あとは神様にまかせよう」という安心感が生まれると思います。
 心を新たに、幼子の姿でやって来られるイエス様とともに新しい1年を歩み始めようという決意をもって待降節を始めるようにというメッセージが、今日の福音ではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*今日1日をどのような心構えで生きようと思いますか?

2025年11月23日
王であるキリスト ルカ23:35~43

 1年の典礼暦年を締めくくる最後の主日は、「王であるキリスト」の祭日と呼ばれています。キリストが「王」であるというイメージは現代人には分かりにくいものかもしれませんが、メシアであり、王であるという名称は、あの大天使ガブリエルのお告げのことばにも表れています。「主は彼にその父ダビデの王位を与えられる」(ルカ1:32)と聖母マリアに伝えています。さらに、ベトレヘムの羊飼いたちに出現した天使も「救い主(メシア)」の誕生を告げ知らせています(ルカ2:11)。タボル山における変容の時には、御父自らが「これこそわが子、わたしの選んだ者。これに聞け」と宣言されています。この「選ばれた者」という呼び名は洗礼・変容・死去などの重要な場面に現われ、いつも「主のしもべ」の姿を想起させます。父なる神はこの名称でイエスを呼ぶことにより、アブラハムとイスラエル民族の選びをもって始められた救いの歴史が、ナザレのイエスにおいて完成することを意味しているのではないでしょうか?

 さて、ルカ福音書では、あの十字架上でさえも持っておられた、イエス様だけが持つ、限りないやさしさ、その愛の深さを示すことばを豊富に記しています。ゴルゴダに向かう途中、嘆き悲しむ婦人たちを慰めるイエス様は、いよいよご自分を十字架に釘付けにしようとする死刑の執行人のためには「父よ、彼らをおゆるし下さい。何をしているか自分ではわからないのです」ととりなしの祈りを捧げています。

 イエス様の十字架の前には3種類のあざける人々がいたことを伝えています。まずユダヤ人の指導者たちで、「他人を救ったのだ、もし神のキリスト(メシア)で選ばれた者ならば自分を救ってみせよ」とあざけり、そして異邦人を代表するローマの兵士たちは「ユダヤ人の王なら自分を救え」と、そして、イエスと同じく十字架につけられた盗賊の一人も「お前はキリスト(メシア)ではないか、自分とおれたちを救ってみろ」と悪口を言っています。それに対するように、イエス様の十字架の前には、イエス様を「真の救い主、キリスト、神の子」であると気がついたもう3種類の人々がいます。それは、同じく十字架につけられたもう一人の盗賊であり、彼は「あなたの御国にお出でになるとき」と述べ、イエス様が王であること、選ばれた者であることを宣言しています。また、ローマの百人隊長は「この人は本当に正しい人であった」とイエス様を賛美し、民衆たちは「胸を打ちながら帰っていった」ことにより、イエス様に共感していることが記されています。天の父がお告げの時、洗礼の時、変容の時に宣言されたことが今、イエス様の十字架の出来事において、この3種類の人々により人間の心、口、行いにおいて表されました。十字架において、イエス様は天(父なる神)と地(人間の世界)の間で至高の存在(王)として世に示されたのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたにとって、この1年の信仰の実りは何でしょうか?

2025年11月16日
年間第33主日  ルカ21:5~19

 年間と呼ばれる主日もいよいよ今日の日曜日で終わります。その次の日曜日は「王たるキリスト」の祭日が祝われ、今年の典礼暦が締めくくられ、新たな典礼暦年の始まりとなる待降節がスタートします。さて、年間主日の最後の頃には毎年、福音書の中の小黙示録と呼ばれる終末の有り様が語られます。確かに歴史的に見ても、西暦70年にはのちにローマ皇帝になるティトゥスによりエルサレムは陥落し、イスラエルはそれから再び流浪の民となり、第二次世界大戦後に現在のイスラエルという国家が建国されるまで国土・領土をもたない民でした。

 ルカ福音書が書かれたのは、ちょうど、そのような危機が迫っていた頃です。それゆえ、イエス様が言われたことが弟子たちの心には「古きイスラエル」から「新しき神の民」への大変革として映ったことと思います。

 多くのユダヤ人にとって神殿は、彼らの誇りであり、この神殿がある限りイスラエルは絶対に滅びることがないという確信を持っていました。しかし、イエス様にとっては神殿とは「神様のおられるところ」という意味であり、ご自分のことを指して言われています。「この神殿を倒してみよ、私は3日でこれを建て直す」と。また、キリスト者の共同体も「聖霊の神殿」と呼ばれます。事実、初代教会は4世紀に至るまで建物としての聖堂や神殿をもたずに宣教活動を続け、成長してきました。

 エルサレムの崩壊は、ユダヤ人にとってだけでなく、キリスト者にとってもいよいよ「世の終わり」を思わせる出来事であったことと思います。しかし、イエス様のことばをよく読むとそれは「世の終わり」そのものではありません。戦争、暴動、飢饉、天災はいつの時代にもあることであると述べられているのです。大切なことは「世の終わり」ではなく、「救いの完成」の時が近づいていることを悟ることなのです。多くの悲劇的な出来事、天変地異だけでなく、人間が引き起こす悲劇が起こりますが、それらによって絶望するのではなく、「神様のご計画がこれらの悲劇によって破壊されること、失敗することはありえない」という信仰と希望と忍耐が必要とされることをイエス様は力強く述べておられます。

【祈り・わかちあいのヒント】
*この世で神を見た人はいません。しかし、「人間は死んだらどうなるか?」ということを考えたことのない人間もまたいません。あらゆる宗教は生の世界と死後の世界を結ぶ何かを語ります。キリスト教では何を教えていますか?

2025年11月9日
ラテラノ教会の献堂 ヨハネ2:13~22  

 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直す」

 先週の死者の日に続いて、11月の第2の日曜日は年間主日に代わり、特別な記念の日として祝われます。それはラテラノ教会の献堂です。ラテラノ教会といえばローマの4大バジリカの一つですが、何故この教会の献堂が全教会で記念されるのでしょうか? それは、この聖堂がキリスト教の歴史の中で特別な意味を持つ教会だからです。313年ローマ皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教をローマ帝国の一つの公認された宗教として認めたのです。ローマ帝国は地中海一帯に広がる大きな国でした。多民族・多文化・多言語であることを超えて一つの国家であるという点で、人類初のコスモポリタンでした。元来、宗教についても寛容であり、ローマ皇帝への忠誠を表す皇帝の像への礼拝さえ認めれば、その宗教は公認されていました。

 初代教会は皇帝を神聖視せず、尊敬はしても礼拝はしませんでした。皇帝はあくまでも人間に過ぎなかったのです。また、当時の多くの宗教は神像に対して貢物を捧げたり、にぎやかな祭典を行なったりするのが通例で、神殿をもっており、そこでのみ宗教行事を行なっていたのです。キリスト者たちの信仰はこれらの宗教とは異なりました。神殿や像は持たず、祭礼のようなことは行なわず、政治的な秘密結社のように思われ、政府を転覆させることをたくらんで集会をしている連中と思われたのです。長い迫害の時代をへて、ようやくコンスタンティヌス皇帝はキリスト教を認めました。そして、自分の領地を提供し、教会を作るよう援助したのです。こうして、ラテラノ教会は首都ローマと地上のすべての教会の母であると言われるようになりました。

 今日の福音においては、イエス様がエルサレムの神殿を過激な方法で清められ、ご自分と教会の関係を語られています。キリストとわたしたちの結びつき、教会の建物と生きた共同体の関係が語られます。どんなに華麗で壮大な建物を建てたとしても、そこに信仰をもった人々が集い、正しい礼拝を捧げ、本来の祈りで信仰を生きなければ、聖堂は単なる建築物に過ぎないのです。キリストの体、聖霊の神殿となるためには、わたしたちとキリストがともにいること、ともに祈り、ともに働き、ともにわかちあうことが必要です。当時のキリスト教徒について、「彼らがどれほど愛し合っているかを見なさい。彼らはわたしたちの仲間さえ世話をしてくれている」とキリスト教徒でない人々によって指摘されているほどです。これがキリスト教に勝利をもたらした秘訣です。力による勝利ではなく、愛と真実の生き方がローマ帝国にキリスト教を認めさせたのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*教会が共同体であるために必要なことは何でしょうか?