今日の福音

稲川神父の説教メモ

2025年11月2日
死者の日 ヨハネ6:37~40

 「わたしの父のみこころは子を信じる者がみな永遠の命を得ることである」

 11月1日は諸聖人の日として、キリスト教国においては守るべき祝日となっております。また年間主日の最後を締めくくる「王たるキリスト」は終末すなわち神の国の完成の時、そして最後の審判の時を思い起こさせます。この11月は死者の月と呼ばれ、諸聖人に続いて、2日はすべての死者のために捧げられた日となっています。歴史的には998年にクリュニー修道院のオディロンによって始められたものであり、11世紀にはローマ教会に広く行なわれるようになっていました。

 さて、死者の日の福音はヨハネ6章から朗読されます。そこには「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」と語られています。復活とはラザロのよみがえりのように今地上にあるこの姿に戻るということではありません。人の子でありながら、イエス様と同じく神の子としての栄光をわたしたちが戴くことです。

 イエス様はこのようなすばらしい恵みに多くの人を与らせるために、神の子でありながら、人の子としてこの地上に生まれ、わたしたちに神の子として生きる道を教えられ、さらにはアダムの原罪によって閉ざされていた天の門を自らの命を十字架において捧げることにより開いて下さったのです。こうして、キリストを信じる者にとって死は終わりではなく生命への新たなる門となり、この世の生活を終わった後にも天に永遠の住家が備えられているのです。死それはわたしたちのこの地上の誕生と同じく、神様が与えてくださるものとして受け止めるのです。事実、わたしたちは自分の生涯においては一日が過ぎ去れば、その一日をもう一度、生きることは出来ないのです。その意味でわたしたちは毎日、一日ずつ死んでゆくのです。それは決して怖いことではなく、むしろその一日を無意味に過ごしてしまうことをこそ、恐れるべきなのです。

 死者の日、それは単なる悲しみや追悼の意味だけではなく、生命の与え主であるお方、父の御心を知り、キリストのようにその御心を行なう人こそ、天に生まれる人となることを思い起こす日ではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしが天国に持ってゆけるものはなんでしょうか?

2025年10月26日
年間第30主日  ルカ18:9~14

 今週もルカ18章に記されている祈りに関するたとえ話で、その2つ目のものです。真の祈りとはどのようなものか、祈りがへりくだる心で神のあわれみに生かされているものでなければならないということが、このたとえ話を通して示されています。二人の祈りはあらゆる点で対照的です。ファリサイ人にとって神殿に来ることは誇りであり、歓びです。彼は立ち上がって祈ります。彼の祈りは一見すると感謝のように見えますが、彼が感謝の理由として述べていることは「神様がしてくださったこと」ではなく「自分が行ったこと」です。彼の祈りのことばには「私が」「私が」と自分しかありません。さらに決定的なのは兄弟(他者ではあっても決して他人ではない人間)に対するいたわりや思いやりがありません。律法社会の落伍者、弱い立場にある人々の生活、生きることの難しさ、傷ついた心に対する感受性が欠けています。彼は自分自身もそのような弱さを持っていること、罪の現実に自分も取り巻かれ、おびやかされていることを忘れてしまっています。

 イエス様は祈りの3つの条件(マタイ6:5~15)の中に、兄弟に対する愛と赦しを要求しています。祈る時、兄弟に対する愛が欠けていれば、神様からも退けられてしまうのです。弱さの中にいる他の人々をあざけることなく、その人々の苦しさ、悲しさを自分の身に負うことこそ、神様の求めるものなのです。

 もう一人の人、徴税人の祈りは何故、聞き入れられたのでしょうか? 徴税人の祈りは「神よ、罪人である私をあわれんで下さい」というただ一言でした。彼はファリサイ人のように自分を誇るものを何一つ持たず、堂々と前に進み出ることも、まっすぐに天を見つめることも出来なかったのです。彼に出来ることは、自分の罪についてあれこれと弁解することではなく、みじめな自分、言い訳できないほど汚れている自分の姿を神様の前に投げ出すことだけでした。この罪に汚れ、不安、苦しみ、孤独にさいなまれ傷ついて、苦しんでいる自分を救えるのは、「神様、あなただけです」と彼は表明しているのです。

 この一言の祈りはイエス様の示す祈りの3つの条件(マタイ6:5~15)を満たしているのです。すなわち、彼は見せびらかすためでなく(第1の条件)、くどくどと言うことなく(第2の条件)、神への信頼にすべてを委ね(主の祈り)、兄弟に対して犯した罪に対する痛悔の心(第3の条件)を表わしています。私たちの発言、意見、考え方は、この徴税人のようにへりくだったものでしょうか? それともファリサイ人のように「私が、私が」という傾向が見られるでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちのよく祈ること、あまり祈らないことはどんなことでしょうか?

2025年10月19日
年間第29主日  ルカ18:1~8

 ルカ18章には、祈りに関する2つのたとえ話が記されていますが、今週はその1つであるやもめと裁判官のたとえです。このたとえ話の目的があらかじめ「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」と記されているのは、珍しいことです。これはルカ福音書の特徴の1つで、イエス様の教えがすべての人々に開かれていることを強調しているのに対して、マタイ福音書では、むしろたとえの真の意味は隠されており、「聞いても悟らない」かたくなな人々には「天の国の秘密を悟ることができない」ことが強調されています(マタイ13:10~17)。

 さて、たとえ話の中に登場する二人の人物は、対照的です。一人は裁判官として大きな権力を持っている人物です。しかも、「神を畏れず、人を人とも思わない」という極端なほど自己本位な性格であるとも記されています。彼は、自分のやりたいことをやり、やりたくないことはやらないという徹底的なマイペースであることが強調されています。一方、もう一人の人物はやもめという弱く何の力も持たない立場の人です。このやもめの持つ唯一の武器は「あきらめない」という熱意と態度だけなのです。
 このやもめは、自分と子供たちが生きていくために必要なものが奪われようとしているのかもしれません。「相手を裁いて、わたしを守ってください」と記されていますが、相手は不正な手段、あるいは詐欺を働いて、彼女の生活をおびやかそうとしているのでしょう。「やもめ」はイスラエルにおいては、共同体が保護する義務をもっていました。この裁判官がやもめの訴えを無視することはやがて、その村、その町のイスラエルの人々を無視することにつながるのです。「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」と彼は気がついたのです。
 その裁きの結果がどうなったかについては、このたとえ話は触れていませんが、今日の日本の社会でも裁判において長い時間がかかることが問題になっていることを考える時、人間の社会では、洋の東西、時代にかかわりなく、このようなことが面倒なことであることは間違いありません。私たちは待つことは苦手であり、反対に人を待たせることには頓着しないというところがあります。自分の痛みには敏感ですが、人に痛みを与えていることにはなかなか気がつかないということがあります。さて、このやもめのように、あきらめずに、ヤケにならずに私たちが行ない続けなければならないことは何でしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様のことばは考えさせられます。「人の子が来る時、果たして地上には信仰を見出すだろうか?」と。

2025年10月12日
年間第28主日  ルカ17:11~19

 このエピソードもエルサレムに上る途中の出来事でした。重い皮膚病(ハンセン病)を患っていた10人の人々がイエス様に近づいてきます。しかし、遠くに立ったまま声を張り上げてあわれみを願います。この種の病気に罹った人たちは家族からも離れ、仕事も出来ず、人々から離れて生活しなければなりませんでした(レビ記13:45~47)。レビ記の13章から14章にこの病気のことについて詳細に述べられています。
 イエス様は直ちに「祭司たちのところに行き、体を見せなさい」と命じています。レビ記の14章には重い皮膚病を患った人が清めを受ける時の指示が詳しく記されています。その清めの儀式は8日間かかるものでした。彼らは祭司のところへ行く途中に清くなりました。しかし、1人を除いては、早く清めの儀式を終えて、家族のところ、自分の町に帰りたかったのでしょうか、そのまま先に行ってしまいました。その中の1人だけが、自分の身に起こったことを知り、イエス様に感謝するために戻ってきました。体をなおされたのは全員です。しかし、イエス様によって「心までがいやされた」のはこの人だけでした。その他の人は、きっと後でイエス様に感謝すれば良いと考えていたのかもしれませんが、その時イエス様に会えるとは限らないのです。思っていても行なわないことは何もしないことと同じなのです。

 信仰とは、ただ頭の中、心の中で「思い」をもっていれば良いのではなく、必ず「ことば」として語り、「行ない」として表さなければ意味がないのです。私たちは「頭や心」でキリスト者であっても、「ことば」でそれを誰かに語っているでしょうか? また、私たちの思いを「行ない」によって表しているでしょうか? 「いつか言うつもり」や「いつかするつもり」ではなく、「今、ここで、このために」(ラテン語ではHic et nunc, ad hoc)でなければ「無」に等しいのです。

 このただ1人戻ってきた人は、イスラエルの人々から見れば異教徒と交わって真の神の民とは言えないサマリア人でした。感謝は人間としての基本的な在り方です。どの時代においてもどの社会においても、感謝という基本的なことが忘れ去られていたり、軽視されたりしているならば、その人間、その社会は決してうまくいっているとは言えないと思います。私たちカトリック教会のミサは別名としてユーカリスチア、すなわち感謝の祭儀と呼ばれていることを思い起こし、神様と人々に感謝しつつ、信仰の道を歩まなければならないと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*「後でやるつもりだった」という言い訳は神様には通じないようですが……

2025年10月5日
年間第27主日  ルカ17:5~10

 さて、ルカ17章にもイエス様のたとえ話が登場してきます。今日の箇所を語ることになったきっかけは、弟子たちが「私たちの信仰を増してください」と願ったことでした。これは、ある意味で「率直で、イエス様の弟子たちらしい」願いだと思います。なぜなら多くの人々は、信仰を、その人の主体的な努力、知的、意志的な探求心、求道的な姿勢と考えているからです。しかし、聖書の中では時々、このような願い・叫びが登場してきます。子供が悪霊にとりつかれて苦しんでいる父親がイエス様に「もし、出来ることでしたら、この子を救ってください」と頼んだ時、「信ずるものには何でも出来る」とイエス様は答え、父親は「信仰の弱い私を助けてください」と叫んでいます。

 また、たびたびイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と語られています。信仰とは一体、何なのでしょう? この基本的なことについて考えてみましょう。一般に「信仰」とは、「神様を信じること」と理解されています。それは正しいことですが、では、どうすれば神様を信じることが出来るのでしょうか? それには二つの面があると思います。知ることと委ねることです。

 旧約聖書では、「アーマン」と「バータハー」という二つのことばで信仰の両面が表されていました。アーマンは「アーメン」と同じ語源であり、「堅固、確実」を表すことばです。すなわち、人間として与えられている能力を総動員して探し求める、主体的な努力という側面、そしてバータハーは、知識や理解を超えて委ねていることへの安心感です。すなわち、「本物、真実だからこそ」安心して委ねることが出来ると感じられるということなのです。からし種1粒ほどの信仰があれば、という表現には、小さく見える出発点でも成長してゆけば、という将来への展望が含まれていると思います。「からし種を見なさい。それは目に見えないほど小さいが、それが育つと鳥が来て、巣をかけるほどに成長する」のです。従ってキリスト教で言う「信仰」は、自力本願でも他力本願でもなく、つまりどちらかの一方通行的な信仰ではなく、神様の恵みと人間の努力が出会うことによって初めて可能になることなのです。

 信じることは、探し続けること、学び続けることなしに成り立ちません。つまり、御父への道であるイエス様との親しさを増し続けることなのです。キリスト教の最も古い呼び名は「主の道に従う者たち」(使徒行録9:1)であり、後にアンティオキアにおいてキリスト者と呼ばれるようになりました(使徒行録11:26)。この名によって分かる通り、私たちは生涯、求道者であることを忘れてはならないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*信仰は無くなることはありません。神様が私たちを信じているという点で。