今日の福音

稲川神父の説教メモ

2025年4月27日
復活節第2主日(神のいつくしみの主日) ヨハネ20:19~31

 復活節の間はヨハネ福音書が多く用いられます。復活節第2主日からご昇天までの間の4回の日曜日の福音朗読は、すべてヨハネから選択されているのです。さて、今度の日曜日は復活したイエス様の出現について有名な箇所の一つが朗読されます。

 復活の日の1日の出来事を振り返ってみると、朝早く、マグダラのマリアたちがイエス様を葬った墓にやって来て、墓が空であることを知り、弟子たちのところに知らせに走ります。ペトロともう1人の弟子が墓に駆けつけ、それが事実であることを知り、帰って行きます。マグダラのマリアだけが涙のうちに墓に留まり、そこでイエス様に会います。その同じ日の夕方、イエス様が弟子たちのところに現われます。この朝と夕べの2つの時間は1日の始まりと終わりの時を意味しており、イエス様の復活が一時的なことではなく、人間の営みのすべてのうちに「主イエスはともにおられ、私たちとともにいる」ことを表していると考えられます。さて、死んでいるかのように意気消沈し、あたかも墓に葬られている人間のようにユダヤ人を恐れ、かぎを掛けて潜んでいた弟子たちの「真ん中に」イエス様が現われます。「あなたがたに平和があるように」ということばとともに、手とわき腹を示されます。さらに弟子たちに聖霊を与え、罪をゆるす権能を与えられます。

 その時、トマスは用事で不在だったようです。彼は「自分の目で見なければ信じない」と、イエス様の出現に立ち会えなかった寂しさ、不安、疑いから、条件をつけてしまいます。1週間後にイエス様が再び、弟子たちを訪れます。この1週間後の出現も興味深いものがあります。何故翌日ではなく、1週間という時間にヨハネはこだわるのでしょうか? それは、主日というキリスト者にとって大切な時間、日曜日の大切さを教えているように思います。

 では、その1週間、イエス様はどこか遠くに行って不在だったのでしょうか? そうではないことがトマスに対することばからわかります。「あなたの指をここに当ててみなさい」というトマスが言ったことばそのままを言われるということは、イエス様はずっと彼らとともにおられたことを意味するのです。この箇所は、1日、1週間という私たちの生活の中にイエス様との関わりがあり、そのことを信じる者に「イエス様の不在」はありえないという大切なメッセージを伝えているのだと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私が今も信じられない思いでいることは……? 
 何を見れば信じられるようになるでしょうか?

2025年4月20日
復活の主日(日中のミサ) ヨハネ20:1~9(毎年共通)

 復活の主日には毎年、ヨハネ福音書のこの箇所が朗読されます。週の初めの日、マグダラのマリアたちが墓を訪れ、墓が空になっていることに驚き、弟子たちに告げ、ペトロともう1人の弟子が墓に走ってゆきます。

 パンセで有名なパスカルは「イエスの最後の神秘は十字架ではなく墓にある」ということばを残していますが、「墓」はイスラエルの人々にとって「黄泉」のシンボルでした。詩篇では墓は「滅びの穴」、「深い淵」と表現され、墓から死者が迷い出ないように大きな石でふさいでおきました。イエス様の復活の栄光は人々が恐れ、忌み嫌う「墓」から始まっているのです。イエス様の葬られた墓は「園」にあり、新しい墓であったことが記されています。「園」とはアダムの生まれたところであり、アダムの罪によって「墓」は死の象徴になりました。新しいアダムであるイエス・キリストも「園」から現われ、「墓」はその意味を「新生」、「復活」、「死から生への過ぎ越し」へと変えられたのです。

 「墓」にたどり着いた2人の弟子たちが見たものは、「空の墓」と「おりたたまれた布」でした。何故、「布」について福音書は記したのでしょうか? 四旬節第5主日のラザロのよみがえりのエピソードを思い出してください。ラザロは自分の力で「墓をふさぐ石」を取り除けず、現われた時は布で包まれたままでした。これは、彼がもう一度、死ぬことを表わしているのではないでしょうか? イエス様の体や頭を覆っていた布は「きちんとおりたたまれていた」と、ヨハネ福音書は見た者でなければ語れない詳しい事実を語っています。もう死者となることがない! 遺体を覆う布はもはや必要がなくなったのだ! という思いがこのことばの中に秘められているのです。

 この地上になぜ私たち人間が生じたのか? それは神様のみわざであると信じる私たちならば、キリストの復活も信じられるはずです。何故ならば、父なる神は御子であるイエス・キリストを復活させ、父という名を除いて一切の栄光も権能もお与えになり、この地上の死も生も超越した存在、神の御子であることを復活を通して示されたのです。しかも大切なことは、イエス・キリストの死と復活は神の偉大な計画のうちにあり、イエス様を復活させた御父のみわざはイエス様お一人のことでなく、すべての人間の救いのためのみわざであることです。イエス様は新しいアダムとして、人類に父なる神に至る真の信仰・従順・愛の道を開かれたことが復活を通して宣言されたのです。この地球、宇宙、世界が人間の意志によって始まったものではないように、キリストの復活も人間の意志によって行なわれたのではなく、神の偉大なあわれみにより実現したことを福音書は宣言しているのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちが走ってゆくべき「墓」はどこにあるでしょうか?
*「布」というしるしを私たちは見ているでしょうか?

2025年4月13日
受難の主日 ルカ23:1~49

 いよいよ、聖週間が始まります。枝の主日、受難の主日と呼ばれる今日は、イエス様のエルサレム入城を記念する行列と受難の朗読が行なわれます。C年にあたる今年はルカ福音書の23章が朗読されます。ルカ福音書は異邦人からキリスト教徒になった人々のために書かれた福音書ですので、マタイ・マルコ福音書とは少し異なった視点からイエス様の最期を描きます。マタイ・マルコは旧約聖書に精通している人々を考えていましたから、イエス様の死の徹底的なむごさ、イエス様を死に至らしめる人々の罪を描いていますが、ルカは十字架上の死をイエス様のかぎりないいつくしみという視点から描きます。

 受難の朗読はピラトの官邸における裁きの場面から始まります。ピラトは3度もイエス様に罪がないことを宣言します。そして責任を逃れようとイエス様をヘロデのところに送りつけます。ヘロデはかつて洗礼者ヨハネを殺した人物であり、その洗礼者ヨハネがよみがえってナザレのイエスとなったといううわさを聞いており、イエス様を見てみたいと思っていました。しかし、自分の思い通りにならないと気に入らないおもちゃを投げ出す子どものようにピラトに送り返します。

 ファリサイ人や律法学士、祭司長たち、長老たちに扇動された民衆はイエス様ではなく、バラバの釈放を要求します。つい先頃、「ダビデの子、ばんざい」と歓呼の声を上げてイエス様を大歓迎して迎えた群衆が、「十字架につけろ」と狂気に駆られて叫び声を上げています。対照的にイエス様は静かに沈黙しています。ただいつくしみのまなざしだけを人々に投げかけています。

 エルサレムの婦人たちを慰めるイエス様の姿をルカだけが伝えています。「生木さえかくのごとくなれば、まして枯れ木はいかにぞや」という十字架の道行に残っていることばです。また、ルカだけが記す有名なことばが続きます。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分では何をしているのか知らないのです」と自分を十字架に釘付けにしようとする人々のために祈ります。このことばを聞いた一人の人がやがてイエス様に「あなたが御国においでになる時、私を思い出して下さい」と語りかけ、イエス様は「今日、あなたはわたしとともに楽園にいる」と約束されるのです。ルカはこうして最後の最後までイエス様が御父の愛の無限の大きさ、深さ、広さ、高さを証しされる姿を私たちに伝えているのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私は今、何をしているでしょうか? イエス様は何を私のために祈って下さっているでしょうか?

2025年4月6日
四旬節第5主日 ヨハネ8:1~11

 四旬節も終盤に近づいて来ました。今日の福音は有名な「姦通の女」のエピソードが朗読されます。姦通の現場でとらえられた女性が引き出され、イエス様を落とし入れようとする巧妙な罠が仕掛けられるのです。律法によれば石殺し、あえて赦せと言えば「律法を無視しているこの人の言うことは信じるべきではない」と言うことでしょう。反対に「悪いことをしたのだから、罰されてもしかたがない。石殺しもやむを得ない」と答えるならば、「ほら、見ろ、この人はたった一人の人も救えないではないか、ことばでは愛せ、赦せと言っても何も出来ない無力な人に過ぎない」と、どちらに答えてもイエス様を誹謗中傷する材料になるのです。

 イエス様は指で地面に何かを書き始められます。勝ち誇るファリサイ人や律法学士たちの目にはイエス様がついに窮しているように見えたのでしょう、彼らがしつこく問い続けるのでやがて、身を起こして、ただ一言「あなたたちの中で罪を犯したことの無い者から、まず、石を投げたらどうか」と。イエス様は気がついていました。この告発が最初から不正なものであることに。なぜなら、姦通という罪はこの女性だけで出来ることではありません。ならば、何故もう一人の当事者、すなわち相手の男性を一緒に連れて来なかったのでしょう? 何故、逃げ遅れた立場の弱い女性だけを連れて来たのでしょうか? 彼女に何故このようなことをしたのか、生きるために身を委ねなければならないほど窮迫している彼女を見捨てていたイスラエルの社会の罪は誰が咎めるのでしょうか?

 群衆たちの心理も注目に値すると思います。最初はスキャンダルに群がる野次馬のごとく、興味本位で「ふしだらなやつだ」とこの女性を軽蔑の目で見ていたかもしれません。「どうなることだろうと心配している」人々もいたのかもしれません。イエス様が指で地面に何かを書いておられたのは、群衆たちがファリサイ人たちの扇動に乗らないように、冷静さを人々が取り戻す時間を与えたかったのかもしれません。

 イエス様は赦しを考えるのに、人間は罰することを考えています。土に指で書かれた文字は風が吹けば消え、人に踏まれれば読めなくなるようなはかないものなのに、なぜそれにこだわり、自分が神であるかのようにふるまうのか、人を量るはかりで量りかえされることを忘れている人々の心に語りかけていたのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたはこのエピソードの誰に一番似ていますか?

2025年3月30日
四旬節第4主日 ルカ15:1~3,11~32

 ルカ福音書15章には「神のあわれみ」に関する3つのたとえ話が記されており、「福音の中の福音」とも呼ばれる父なる神と子であるイエス様のいつくしみの心の真髄が語られています。イエス様の福音とは「父の心を子に向けさせ」(ルカ1:17)、「イエスの名によって罪のゆるしを与える回心が万民にのべ伝えられる」(24:47)ことなのです。

 さて「放蕩息子のたとえ」の要点・プロットは

弟息子は自分の力を試したい、自分の夢を実現したいと考えたのか、父が生きているのに、頂くことになっている財産を分けて下さいと願い出ました。
父はその願いを聞き入れ、弟息子は遠い国に旅立ちました。
弟息子は本来の夢を忘れてその場だけの楽しさに溺れてしまい、気がついた時には無一文、無一物になって、自分の実力で出来ることは豚の番人の仕事。
やがて、父の姿、雇い人たちに対してさえも深い思いやりがあるからこそ人々に慕われ、信頼され、成功者となっていることに気がついて。
今の自分が父に対して出来ることは何だろうと考え始め、「ありのままの自分の姿でよいから」父に詫びたい、息子としてでなくとも、しもべの身分でもよいから「父のため」「父のそばにいたい」と決意し、無一文、無一物の旅へと歩み出す。
父は弟息子が出て行った日以来、ずっとその方角を見つめていた……だからこそ誰よりも早く「帰ってきた弟息子」に気がつき、自ら迎えに出る。
弟息子が謝罪のことばを述べる前から「息子」として受け入れている。
 「たとえ話の中のたとえ話」とも言われる「放蕩息子のたとえ」をもう一度、よく「聴いて下さい」(聞くではなく聴くのです)。回心した者にあわれみが与えられるのではなく、神様が深いあわれみにより私たちを受け入れて下さるから、また包み込んで下さるから、私たち人間は回心できるのです!

 ルカの描くイエス様の姿はまさに「神様の深いあわれみ」の見える姿、生き方なのです。その頂点はルカ23:33~43の十字架上のイエス様のことばとわざです。ご自分にくぎを打ち込む人々をゆるすように父に祈るイエス様の姿を見て、一人の盗賊は驚き、かつ感動し、「なぜこの方はそのようなことが出来るのか! このお方は神様といつも一緒におられるのではないか! このお方は神の子そのものなのではないか!」と感じたのかもしれません。この盗賊と異邦人の百夫長の2人が「この人はまことに神の子」と気がついたのでしょう。

【祈り・わかちあいのヒント】
*自分のしたいことの中に本当の幸せはありましたか?
*自分のためではなく誰かのために本気でしていることはありますか?