
今日の福音
稲川神父の説教メモ
2026年2月8日
年間第5主日 マタイ5:13~16
「あなたがたは地の塩、世の光である」
山上の垂訓には、日本人にもよく知られている聖書のことばが度々登場しますが、今日の箇所もその一つではないでしょうか? 「あなたがたは地の塩である」とのイエス様の教えは何を私たちに示唆するものでしょうか。
まず、このことばを聞く時、幼いイエス様が台所でお料理をしているマリア様のそばに立って、見ているような場面が想像されます。「塩はとっても大切なもの、味をつけたり、人間の体に必要なもの、でも多すぎても料理全体がダメになってしまうものなのよ」とお母様であるマリア様が語っているような風景が目に浮かんできます。
私たち地球上の生物はみな、水と塩というものが不可欠なのです。多くの生物が海という塩を含む水から誕生したこと、胎児が子宮の中で育ってゆくときの羊水が海の水とほぼ同じ塩分、ミネラルのバランスであることを考えても、塩の役割は大変重要なのです。
塩の役割は、①味をつける ②清めに用いる ③呪いを意味するなど、聖書の中でもいろいろな使用例があります。味付けということを考えてみると、塩のもつおもしろい性質に対比作用というものがあります。他の味の中に塩がほんの少量入ることによって、塩の味はわからないのに、その他の味が強く感じられるということです。わかりやすい例としては、お汁粉を作る時、砂糖の他にほんの少々の塩を加えることによって、お汁粉の甘さが増すのです。
「あなたがたは地の塩」とイエス様が言われたとき、「あなたがたのことばや行ないは、あなたがた自身を目立たせるためのものであってはならない。むしろ隠れて、しかし、みんなのために、みんなを生かすという隠れた働き方こそキリスト者として必要なこと、大切なことなのだ」という意味もあったのではないでしょうか? 塩は隠し味として用いられる時にこそ、その力が大きく現れるのです。反対に塩の味がのさばると、顔をしかめられた上に、その食べ物の味さえ、壊してしまい、ひどいときにはもう食べられやしないとすべてが捨てられてしまうことさえあるのです。皆様! ご用心! 私たちが「いいこと」と思っても、隠し味としてみんなを生かしているか、それとも……
【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちは「隠し味」としての塩の役割を果たしているでしょうか?
*塩が味を失う時とは、私たちがどのような状態の時でしょうか?
2026年2月1日
年間第4主日 マタイ5:1~12a
「悲しむ人は幸いである。その人は慰められる」
いよいよ、イエス様の教えが語られます。マタイ福音書はイエス様の教えを五つの垂訓という形でまとめており、その第1の垂訓はマタイ5~7章の「山上の垂訓」と呼ばれる有名な箇所です。その場所が「山」であったことにより、イエス様の姿が、シナイ山で旧約の神の民がどのようにして神にふさわしい民になるべきかを告げたモーセと重なります。新約時代の神の民の生きるべき道が示されるのです。
今日の福音は、山上の垂訓の冒頭を飾る「真福八端」と言われる「八つの幸い」についてです。この八つの幸いは言わば、イエス様の教えの根本的な精神を表すモットーのようなものです。その第一声「心の貧しい人々は幸いである」は、日本語では少し奇妙に聞こえるかもしれません。と言うのも「心が貧しい人だなあ!」と言えば、他の人のことを顧みる余裕もない、自分のことばかり考えている人」というニュアンスです。そこで、「聖書と典礼」の注釈にもあるように「霊において貧しい人」という訳も可能なわけです。実に、このたった1行に対し200種類もの翻訳が可能なのです。
では、イエス様が言いたかった「心の貧しい人」とは、どんなことなのでしょうか? それは、「この世のどのようなものでも解決することの出来ない、人間の苦しみを解決できるのは、神様、あなたしかいないのですということを知っており、それゆえに神様にしか頼ることが出来ない人々」という意味なのです。
「悲しむ人は幸い」とイエス様はおっしゃいますが、何故でしょうか? よく考えると「自分のことで悲しむのではなく、他の人の悲しみを自分の悲しみとして受け入れることのできる心をもった人は幸い」なのです。「いつくしみ」ということばはラテン語では「ミゼリコルディア」ですが、ミゼール(悲惨なこと、悲しみ)とコルディア(心)という二つのことばが一緒になってミゼリコルディアすなわち「いつくしみ」という意味になるのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*なぜ「柔和な人は幸い」なのでしょうか?
*なぜ「義に飢え渇く人は幸い」なのでしょうか?
*神さまを見ることのできる「心の清さ」とはどのようなことでしょうか?
*神の子と呼ばれるために「平和を実現する」ために何をしていますか?
