今日の福音

稲川神父の説教メモ

2025年6月15日
三位一体の主日  ヨハネ16:12~16

 四旬節から復活祭、そして聖霊降臨という大きな典礼の季節を締め括るのは、今週と来週の2回の主日です。そのテーマは「三位一体」と「キリストの聖体」です。実は、この2つのテーマは救いの歴史全体をあらわすキーワードなのです。したがって、別々の主日ではなく、三位一体と聖体には深いつながりがあるのです。

 この日曜日のテーマである「三位一体」は実はミサとの関連があります。初代教会の人々は「父と子と聖霊」をすでに実感し、信仰を持っていましたが、それが理論化され、体系化されてゆくには時間がかかりました。その歴史のあいだには、キリストの神性を疑問視したり、反対にキリストの人性を疑問視したり、聖霊だけを切り離して強調する人々があらわれたりし、15世紀のフィレンツェ公会議においてようやく神学的な理論が定まりました。三位一体の主日がカトリック教会全体で祝われるようになったのは10世紀ごろからです。そして、三位一体の信仰が教会の教えの根本であることを明確にするために、ミサを「十字架のしるしと三位一体への信仰告白のことば」で始めるという習慣が、ここからスタートしたのです。私たちキリスト者にとってはごく日常的な動作ですが、キリスト者ではない人々にとっては、この動作をしているキリスト者を見る時に新鮮な驚きを感じるようです。

 さて、三位一体の神について論理的な叙述はおよそ不可能です。むしろ、三位一体の特徴を受け止めることに心を向けてみましょう。神さまの本性は「愛」なるお方ですから、三位一体を説明するには「愛」を手がかりにすることがふさわしいと思います。愛は一人では成り立ちません。また自己愛は不完全な愛ですから、愛には対象が必要です。父と呼ばれる存在と、その父の愛を完全に受け入れる子という存在の間に共有される愛こそ、聖霊と呼ばれるお方です。父と子の両者の間だけでは愛は完結しません。愛は、両者が心をあわせて共通の方向に向かう時に完全なものとなります。父と子より出でて神様の愛の対象となる存在、すなわち私たち人間に神様の愛が遣って来られるのです。それが人となった神の子、イエス様であり、イエス様と御父の持つ完全な愛の心を私たちに与えることのために、十字架という完全な従順、祈り、信仰の姿が示されるのです。そして、イエス様の後に従って十字架の道を歩ませるよう力づけ、イエス様のことを絶えず思い起こさせるのが聖霊の働きです。聖霊は私たちの中に留まり、私たちを父と子の愛の交わりの中に引き上げてゆくお方なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*祈りのはじめに「父と子と聖霊のみ名によって」と十字のしるしをするのはカトリックだけで、プロテスタントでは行なっていないのは何故でしょう?

2025年6月1日
主の昇天  ルカ24:46~53

 復活祭から40日後、主の昇天の祝日を祝います(日本では復活節第7主日に昇天を祝います。)私たちが親しんでいる昇天のイメージは、ルカ福音書が記すように手を上げて弟子たちを祝福しながら天に昇られる姿です。今年の主の昇天においてはルカ福音書の最後の部分が朗読されます。この福音書において強調されているのは、イエスの復活と昇天の神秘が、教会の宣教活動の開始となる聖霊降臨と深いつながりがあるということに直接ふれていることです。
  1. イエスの復活と昇天が弟子たちを使徒へと変える⇒イエスの与えた使命が弟子たちを変える⇒イエスの使命を受け継ぐ弟子たちが使徒たちへと成長し、全世界へ派遣されるのです。その第一歩としてイエスは約束されたもの(聖霊)を待ちなさいと命じるのです。使徒たちの宣教の第一歩が「祈りながら聖霊を待つこと」であったことは印象的です。
  2. ルカ福音書・使徒行録において、宣教は「証し・証人となること」という表現が多用されています。証人とは自分の考え出した理論を語ることではなく、自分の体験したことを語ることです。これは今日の私たちの宣教についても大切なことです。
  3. ルカ福音書の語るイエスの昇天は、あたかもイエスがこの地上から離れ去ってゆき、もう目には見えない遠い、高い天空に行ってしまったように思えるかもしれません。しかし、「天」(ヘブライ語でハッシャマイーム)は、「高い」「遠い」という意味合いだけでなく、私たちが地上のどこにいても必ず「私たち」とともにあるものという意味合いがあることを忘れてはなりません。
  4. オリーブ山でイエスを見送った弟子たちは神殿に集まり、絶えず神を賛美していたとルカは記しています。ルカ福音書は、神殿の祭司ザカリアに天使ガブリエルが洗礼者ヨハネの誕生を告げる物語から始まり、弟子たちが神殿で神を賛美する姿で終わっているのです。
  5. 弟子たちのなすべきことは直ちに行動を開始することではなく、祈り、賛美し、そしてイエス様が送られる聖霊を待つことでした。祈りなしには宣教は不可能です。イエス様ご自身の生涯もその宣教活動においても、祈りすなわち御父との対話、交わりがあったからこそ、「私の思いのままではなく、あなたのみ旨が実現しますように」ということを行なうことが出来たのです。この姿勢は私たちの今日の教会活動についても同じことが言えるのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様の昇天は復活の出現があらゆる時代に続くことを暗示しているのではないでしょうか? あなたはともにおられるイエス様と話していますか?

2025年5月25日
復活節第6主日  ヨハネ14:23~29

 復活節第2主日から第6主日までの5回(C年の場合)の日曜日には、ヨハネ福音書が朗読されています。第6主日の福音朗読では、先週に引き続いてイエス様の最後の晩餐におけることばが語られます。そのテーマは「聖霊」についてであり、それは来週の昇天の祝日の準備にもなっています。そして、昇天されたイエス様は使徒たちに聖霊を送り、教会がその活動をスタートする聖霊降臨の祝日がそれに続いて祝われるのです。

 さて、イエス様は最後の晩餐で弟子たちの足を洗い、聖体を制定し、ユダやペトロの裏切りについて予告し、また新しい掟・愛の掟について語りました。今日は、それらのすべての意味を後で弟子たちに示してくださるお方「聖霊」について語られます。最後の晩餐の時、弟子たちはイエス様の語られる言葉の意味が理解できなかったことが、様々なことを通して示されています。たとえば、フィリッポは「父をお見せ下さい。そうすれば私たちは満足します」とイエス様にお願いしていますが、「フィリッポよ、こんなに長くいるのにまだわからないのか、私を見た者は父を見たのだ」とイエス様は答えています。また、トマスは「主よ、あなたがどこに行かれるのか、私たちにはわかりません。道を教えてください」と尋ねています。すると「私が道であり、真理であり、命である」と諭されます。このように弟子たちは、まもなく始まる受難・十字架の意味も本当に理解してはいなかったのです。

 それゆえ、イエス様はその出来事の意味、またご自分が教えられたことを、後で弟子たちに教えてくれる「聖霊」について語られるのです。「弁護者、すなわち父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とイエス様は語られるのです。さらに「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」のです。「聖霊」の大切な働きは、「イエス様のことを思い起こさせること、イエス様の教えたことをことごとく思い起こさせること」です。私たちは何かを考えたり、決めたりする時、「自分の意見や利益を基準に」して決めてしまいがちですが、そこで「イエス様ならどう考え、どう行なわれるだろう」と少しでも考える、思い起こすならば、きっと少しずつ変わってくると思います。いきなり完全にイエス様のようにではなくとも、弟子たちのように少しずつ、イエス様の方に近づいてゆけるのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*今、どのような道、どこへ向かっている道を歩んでいますか?
*あなたがしたいことは、イエス様がしたいことと同じでしょうか?

2025年5月18日
復活節第5主日  ヨハネ13:31~35

 先週はヨハネ10章から「羊のために命を捧げるよき牧者であるイエス様」のことばが語られました。そして今週も、「愛するもののために命を捧げるほど大きな愛はない」と語られたイエス様が、私たちのために「新しい掟」「唯一の掟」「愛の掟」を私たちに与えて下さいます。「掟」と言われるととても重い、そして苦しいものという感じがします。旧約聖書のモーゼ五書には613の掟が記されていると言われています。そして、まじめなユダヤの人々はそれに様々な解釈を加え、タルムードとか、ミシュナと呼ばれる細かい規定をどんどん作り、次第にその重苦しさにがんじがらめになっていってしまったのがイエス様の時代でした。イエス様の教えとファリサイ人たちの教えの違いは何だったのでしょう?

 「これをしてはならない、このようなことは律法に反する」――要するにこれはダメ、あれもダメと行いを禁じてしまう条項が多すぎたのです。イエス様の教えはその反対、「ゆるしなさい、与えなさい、愛しなさい」と行いを促す呼びかけでした。これは興味深いことです。私たち日本人は「人の迷惑になるようなことはしてはいけませんよ」と言われながら育ってきました。しかし、果たしてそれでよい人間に成長したでしょうか? 東洋の偉大な思想家である孔子は言われました。「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」と。そしてイエス様は言われました「人からして欲しいと思うことを人にしてあげなさい」と。その表現は対照的です。私たちは、生まれた時から誰かに支えられて生きてこられました。そのことを忘れず、自分も誰かを支える人間になるように行うことをイエス様は呼びかけておられるのです。

 愛の掟とは決して「自分がやりたいようにしてあげればよい」のではありません。その人を見つめ、その人が本当に必要なことを、今、ここで行うことなのです。愛は生きているものですから、固定・定型ではありません。いろいろなことば、いろいろな行い、いろいろな生き方となって表れるものなのです。私たちの愛が本当の愛であるためには、生涯をかけて「イエス様の愛し方、私があなたがたを愛したように」ということを学び続けてゆかなければなりません。そうでないと単なる人間的な愛に留まり、時には自己満足的な自己愛に留まってしまう危険さえあるのです。「キリストのように考え、キリストのように行い、キリストのように愛すること」これが唯一の正しい愛の学び方なのです。一言で言えば「イエス様ならばどう考え、どうなさるだろうか?」といつも考え続け、祈りながら、探しながら行うことなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたがただ「一つの掟」として選ぶなら、どのようなことを掟としますか?

2025年5月11日
復活節第4主日  ヨハネ10:27~30  

 復活第4主日には「善き牧者のたとえ」が語られ、第5主日には、「新しい掟」が語られます。この2つの話には共通点があります。それは、イエス様と私たちには生命的な絆があるということを教えてくれるということです。
 ヨハネ福音書にはイエス様の「私は○○である」という自己表現が7つあります。

1. 6:35,51 「私は天から降った命のパンである」
2. 8:12,9:5 「私は世の光」
3. 10:7,9 「私は羊の門」
4. 10:11,14,27 「私はよい牧者、羊は私の声を知っている」⇒第4主日
5. 11:25 「私は復活であり、命である」
6. 14:6 「私は道、真理、命である」
7. 15:1,5「私はぶどうの木」
 さて、「羊」について、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか? おとなしく従順なイメージがある反面、自分で身を守るすべのない弱いものというイメージもあります。群れでないと生きられず、また自分の力で水やえさとなる草をさがせないという愚かなイメージもあると言われています。しかし、その羊にただ一つ優れた点があるとすれば、それは「自分の牧者」は決して間違えないという聴き分ける力を持っていることです。

 イエスはよい牧者として、特に次のことを強調しています。

1. 一頭、一頭の羊を知っている牧者です。知る=愛する
2. 迷った羊をあきらめずに捜し出す牧者です。
3. 羊のために命を捨てる牧者です。
4. まだ囲いに入っていない羊について配慮する牧者です。

「よい牧者は羊を知っており、羊も牧者を知っている」が大切なキーワードです。

  知るとは:
      親しく語り合えること
      直感的にわかること
      言うことに聞き従うこと


【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様の声だとわかるためにはイエス様の呼びかける声に親しまなければなりません。
 あなたは1日1回、お祈りしていますか?