今日の福音

稲川神父の説教メモ

2024年11月10日<br />年間第32主日 マルコ12:38~44

「この人はだれよりも多くを入れた」

 今日の福音朗読はマルコ福音書の12章からです。エルサレムの神殿の境内においてイエス様は話しておられます。ファリサイ人や律法学者たちの欺瞞と真実について語られたその直後に小さな出来事がありました。それはイエス様以外の人々には目に触れることのないようなささやかな、しかしイエス様にとっては重要な出来事でした。

 エルサレムの神殿には毎日、数多くの人々がやってきます。そして自分の願い事をかなえて戴こうといけにえを捧げたり、献金をしたり、毎日が日本で言えば初詣の時のような混雑です。現代の私たちには分かりにくいことですが、多くの献金をする人々のためにはラッパが吹き鳴らされたり、その行為が人々の目を引くように演出されていました。まさかそんなことをと思うかもしれませんが、今でも日本のお祭りなどの寄付金が金額入りで掲示されたり、ということを考えると、今も昔も変わらないことであるのかもしれません。ヨーロッパの教会でもパトロンになったメディチ家の紋章が教会の天井を飾っていたり、絵画の中に聖人にまざってパトロンが描かれていたり、また現代の日本の教会でも教会の聖堂の建築に当たって寄付をしてくれた人々の名簿を壁に飾っていたり……人間の名誉欲には限りがないようです。

 お釈迦様の物語にも貧者の一灯というエピソードがありますが、イエス様は貧しいやもめが近づいてきて、恥ずかしそうに、献金をそっと投げ入れた姿を見て、弟子たちを呼び集められました。「見なさい。このやもめは誰よりも多くを入れた」と。弟子たちの中には「たった2レプタなのに」と思っていた人もいたかもしれません。しかし、イエス様は叫ぶように、宣言するように語られます。「他の人は有り余っている中でその一部を入れたに過ぎない。このやもめはもっているすべてを捧げた」と。この献金を入れたやもめ自身さえも「こんなわずかなもので申し訳ありません」という気持ちだったと思います。しかしイエス様は見落としません。その人の本当の気持ちとその人の行いを知っています。神様により頼むほかすべを持たない人の叫びや願いを最優先される父なる神の御心をイエス様は語られます。「知恵ある人、賢い人には隠し、これらの人々、幼子に示されること、これが父の御心である」と宣言されています。私たちは何を捧げますか、私たちはどんな心でそれを捧げていますか? イエス様は私たちについてなんと言われるのでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*持っているものすべてを差し出してもよいと思えるのは、どんな時、何のため、誰のためでしょうか?

2024年11月3日
年間第31主日 マルコ12:28b~34

「あなたは神の国から遠くない」

 今日の福音朗読はマルコ福音書の12章からです。エルサレムに来られてから、ファリサイ人やサドカイ派、ヘロデ党の人々などがイエス様をおとしめようと様々な議論を仕掛けてきます。マルコ福音書にはそのような議論・論争に関して4つのエピソードを取り上げていますが、今日の箇所は他の人々のような悪意に満ちた論争ではなく、神様の教えの真髄を理解している1人の律法学者とイエス様の受け答えがとても興味深く思われます。

 旧約聖書の律法と呼ばれる掟は613もあり、またその一つ一つが、細則や実施にあたっての施行規則というように次から次へと細分化されてゆき、とても複雑でわかりにくいものになっていました。それゆえ、日常生活においても「これは律法や掟に適うものか、反するものか?」ということについて、ラビや長老たちの意見や指導に従わなければなりませんでした。その反動として、「要するに律法とは?」あるいは「律法の中で最も大切な掟は?」と、全律法の真髄を求める傾向がありました。しかし、律法や掟のどれ一つもゆるがせには出来ないはず、と考え、「どの掟が最も重要であるか?」についても意見は様々だったようです。

 イエス様の答えはあっけないほど明確です。「心を尽くして神を愛しなさい」と。この答えはイスラエルの人々が毎朝唱えていた祈りのことばなのです(申命記6:4以下参照)。イエス様の答えはもう一つの掟も同じ重さであると宣言します。「隣人を自分のように愛すること」も全律法の精神を表すものなのです(レビ19:18)。イエス様は古い律法の文言を組み合わせることによって、この「もっとも重要な掟は一つの掟の両面であり、新約の時代の掟となる」ことを指摘しているのです。質問した律法学者は、ユダヤ人を代表する信仰者でありながら、新約の信仰を受け入れ始めているように見える態度です。彼は「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛することはどんな献げ物やいけにえよりも優れています」とイエス様の意図を正しく受け止めています。それゆえ、イエス様も「あなたは神の国から遠くない」と彼を認めています。しかし、このイエス様の答えにはもうひとひねりがあるのでは? とも思います。「神の国から遠くない」状態にとどまらず神の国に入るためには、「その理解していることを行うこと」が必要なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちはどのようなことを議論していますか?
*正しいとは思うけれどもなかなか実行できないことはなんですか?

2024年10月27日
年間第30主日 マルコ10:46~52

「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

 今日の主日にはマルコ福音書の10章に記されているエリコでの奇跡のエピソードが朗読されます。エリコはヨシュア記2~6章に記されているように、イスラエルの先祖たちがヨルダン川を渡り、約束の地に入り最初に得た町です。昔も今も交通の要衝の地でした。ヨルダン川にそって南北に移動する人々がここからエルサレムへと方向を変えていく、大きな交差点のような町でした。そして、この町ではイエス様と収税人の頭ザアカイの出会い、イエス様と盲人バルテマイの出会いがあり、イエス様に出会ったこの2人の人物はこれまでの人生とこれからの人生が大きく変わるのです。2人ともなかなかイエス様に近づくことができません。それでもあきらめずにバルテマイは叫び声を上げ、民衆に叱られてもなりふり構わず求め続けます。ザアカイもまた民衆に笑われても木によじ登ってイエス様の姿を捜し求め続けます。やがてイエス様の方から声をかけて下さいます。

 バルテマイは上着を脱ぎ捨てて、イエス様のところに近づいてきます。この当時の物乞いは上着に大きなポケットのような袋を縫いつけており、喜捨物やお金を戴いていました。この上着を脱ぎ捨てるという行為はバルテマイがすでに「自分の目をイエス様に癒していただける」という確信を持っていたことを表わしていると思います。イエス様は信仰をもって自分を求める人を決してお見捨てにならないことを、バルテマイはエリコを通り過ぎる人々の話から感じ取っていたのです。エリコの住民たちもイエス様のうわさは聞いていましたが、バルテマイのような信仰の確信はもっていませんでした。だから初めはバルテマイを叱りつけ、黙らせようとしていたのです。ところがイエス様の「その人をつれて来なさい」という一言によって、エリコの住民の心が変わります。

 原語では「タルーセイ」(ギリシャ語:元気を出しなさい。よかったね。さあ今こそ……というような励ましの言葉)と記されています。エリコの住民の閉ざされていた心がイエス様の一言で変わったのです。これこそが奇跡ではないでしょうか? バルテマイの目が見えるようになることも奇跡ですが、人々の心が一言でバルテマイに対するやさしさや共感、励ましへと変わったのです。目が見えるようになったバルテマイはイエス様の後に従って歩みだしました。イエス様のもう一つの名は「人生をともに歩む師であり、友であるお方」なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちはバルテマイよりもイエス様について知っていることは多いのではないでしょうか? それなら彼以上にイエス様に近づくはずでは?

2024年10月20日
年間第29主日 マルコ10:35~45

「あなたがたは、わたしの飲む杯を飲むことが出来るか?」

 今日の福音は、イエスさまの3回目の受難予告のすぐ後に続くエピソードです。ゼベダイの子らの見当違いな願いをきっかけに、教会を成立させる本質が「仕えること」であるとイエスさまは教えられます。

 マタイ福音書では、ゼベダイの子らの母が息子たちのために願いを発していますが、マルコ福音書では直接、2人が願い事を持ち出しています。最初の受難予告ではペトロの信仰が称えられ、また首位性が約束されていますが、3回目の受難の予告を聞いたにもかかわらず、今度は、ペトロとならび称されるあの2人の兄弟が、あいかわらずイエスさまがメシアであることを地上における王のようになることと受け止めており、右大臣・左大臣のポストを約束して下さいと願っております。しかもその願い方はかなり露骨で、直接的です。

 「わたしたちがお願いすることをかなえて下さい」とは、先週の金持ちの青年の態度と比較してもかなり、自己中心的な響きがあります。この2人はかつてペトロとともにイエスさまの変容の栄光を目撃しているだけに(しかも、この変容のことはイエスさまから話してはならないと口止めされているだけに)、受難についても、モーゼやエリヤを従えるこの御方に絶対に敗北はないと確信していたのかもしれません。この願いに対してイエスさまは「栄光」よりも「栄光に至る道」つまり「苦しみ」について語ります。それが「杯と洗礼」という表現で表わされています。旧約聖書では「杯」はしばしば「苦しみ」を意味します(詩篇75:9、イザヤ51:17~22、エレミヤ25:15、エゼキエル23:31~34)。洗礼も「水の中に沈む」という意味でしばしば非常に大きな苦難の体験を表わしています(詩篇42:8、69:2,15、イザヤ43:2、ルカ12:50も参照)。

 イエスさまは低くされることを喜べと教えられます。仕えることに喜びがあると教えられます。このことがわからないとキリストの教えが理解できないと思います。そのことを実践できた人がわたしたちの時代にもいます。それがマザーテレサです。彼女ほど単純に、澄み切った心でこのことを喜んで受け入れた人はいないかもしれません。ゼベダイの子らの願いは自己実現を求めていますが、イエスさまは御父の望みを実現することを望んでいるのです。キリストに従う、キリストを信じるのは自分の願いをかなえてもらうためではありません。そのことがわかってもあなたはキリスト者でありつづけますか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*つらい時でも苦しい時でも信じていますか? それとも……

2024年10月13日
年間第28主日 マルコ10:17~30

「あなたには欠けているものが一つある」

 エルサレムに向かう旅の途中、イエス様は様々な人々に出会い、ご自分に従う道を教えてゆかれます。今回は金持ちの青年との出会いと教えが語られます。この青年はイエス様のところに走りよって、ひざまずいて尋ねます。「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか?」と。イエス様の答えはあっけないほど簡明です。それは当時の人々がよく知っている「十戒」の示す掟でした。すると彼は答えます。「先生、それはみな子供のころから守ってきました」と。周囲の人々は感心し、また彼自身も周囲の人々も「間違いなく、救われる人、永遠の命を約束される人」と考えたかもしれません。何故なら、神は律法を守る人、正しい人を愛されると考えていたからです。ところが、イエス様は慈しみをこめて彼を見つめ、言われます。「あなたには足りないものが一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に施しわたしについて来なさい」と。イエス様の言いたかったことはなんでしょうか?

 彼が十戒の掟をすべて守ってきたということは「盗まずとも暮らしてゆけるほどの財産をもっていたから、うそをつかずとも暮らしてゆけるほど豊かであったから」で……それは彼自身の努力というより、親から受け継いだものであり、恵まれていたから人を蹴落としたり、欺いたりせずとも生きてこられたのです。

 彼はこれまでの人生で「神を悲しませるような悪いことはしていません」、つまり律法の範囲の中で生きてきました。しかし、「神様を喜ばせるような良いことをしてきた」とも言えません。イエス様の考えでは永遠の命とは「義務を果たしたから与えられる権利」のようなものとは違います。進んで神と人とを喜ばせる働き、祈り、心を持っている人を幸いな人と呼ばれるのです。エリコで出会ったザアカイが、イエス様に言われたからではなく、自分から進んで「もし、誰かに迷惑をかけていれば、4倍にして償います。貧しい人に施します」と言い出した時、イエス様は喜び「この人もアブラハムの子、今日この家に救いが来た」ことを宣言しておられます。人に迷惑をかけるようなことをしてはいけない、それは人間の社会の基本的な原則です。しかし、イエス様の福音の原則は、それ以上なのです。自分が出来ることを進んで(命令によってではなく、自発的に、自分で探しながら)行なう時こそ、神の国に一歩近づくのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちに欠けている「一つのこと」とは何でしょうか?