今日の福音

稲川神父の説教メモ

2024年7月14日<br />年間第15主日 マルコ6:7~13

 イエス様は宣教活動の最初から、弟子たちを呼び集め、ご自身の教えを間近なところで学ばせ、寝食をともにし、福音のための働き手を育てて行きました。今日の福音書において、イエス様はその弟子たちをいわば「教育実習」のように派遣して行きます。

 イエス様のこの弟子たちの派遣の特徴は、次のとおりです。①「二人ずつ組にして」派遣され、②杖とサンダル以外は何も持たず、③悪霊に打ち勝つ権能を与えられたこと、④迎え入れてくれる家にはとどまり、⑤受け入れられなければ「足の裏のちりを払う」こと。⑥弟子たちは出かけて行き、悔い改めさせるために宣教し、⑦悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしたこと。

①「二人ずつ組にして」:イエス様は宣教活動が共同体の協力の下に行なわれるものであることを示唆しています。仏陀が弟子を遣わす時と好対照です。
②杖とサンダルはモーセの姿、エルサレムの神殿を訪れる巡礼者のシンボルと重なります。宣教とは、すでに行く先の人々の心の中に働きかけておられる神様と出会うためという姿勢が大切なのです。
③悪霊に打ち勝つ権能:人々や世の中を支配している悪しき考え、慣習や制度、さらには妄想、風評、偏見というような「この世が是としているけれど間違っているもの」に対して、神の愛、神の望む世界(神の義)を実現するための力が弟子たちに与えられたのです。
④「迎え入れてくれる家」:行く先にはかならず神を信じ、神様からの働きかけを待っている人々がいることを暗示しています。
⑤「足の裏のちりを払う」:受け入れない人々に対しては神様もその人々を受け入れてくださらないことを示す預言的な行為です。ルカ10章11節には類似箇所に「わたしたちの足についているこの町のちりさえも払って、あなたたちに残そう。しかし、神の国が近づいたことは知っておくがよい」と述べるようにイエス様は語られています。
⑥弟子たちの宣教は「悔い改めさせる」ための宣教と語られています。悔い改めとは単なる改悛ではなく、新しい生き方への方向転換の意味での回心です。
⑦悪霊を追い出し、油を塗って病人をいやす。初代教会の活動を暗示する使徒たちの働きです。悪霊とは社会にはびこる悪例、悪癖、慣習、社会の病、病気とは人間を苦しめるものの象徴です。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちが人生の旅路において、携えるべき「杖とサンダル」とは、何でしょうか?

2024年7月7日
年間第14主日 マルコ6:1~6

 今日の福音朗読では、イエス様のナザレへの訪問の記事が語られていました。マタイ福音書(13:53~58)にも同様の出来事が語られていますが、マルコ福音書はより詳しく報告しています。マルコ福音書を注意深く読んでみると、このナザレへの訪問はイエス様の宣教活動の転換点になっています。

 宣教活動の初期、イエス様は弟子たちとともにガリラヤ中をめぐり歩き、方々の会堂で教えを述べておられました。しかし、このナザレの会堂を最後にして、それ以後は「会堂」で教えを述べることをなさいません。つまり、イエス様はナザレの会堂における人々の「驚くべき不信仰」を体験されてからは、二度と「会堂」には足を踏み入れないのです。マタイ福音書とマルコ福音書は「会堂」(=教えの固定化のシンボル)を全ユダヤ人の不信仰の典型とみなしていたのでしょう。

 ナザレの人々がイエス様をすなおに受け入れることができなかったのは何故でしょう? 彼らは「大工ではないか? マリアの息子ではないか? その兄弟(当時はいとこのような近い親族も兄弟姉妹と呼んでいました)を知っている、一緒に住んでいるではないか?」と口々に叫んでいます。つまり、「これまで知っていたイエスの姿」にこだわるがゆえに「眼の前にいるイエス様」を受け入れられないのです。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、人間が陥りがちな偏見を「イドラ」と呼んで警戒するように述べていますが、ナザレの人々はまさに「会堂のイドラ」にとらわれていたのでしょう。つまり、人の子としてのイエス様のことを幼いころから知っていると思い込んでいたからこそ、神の子としてのイエス様の姿を受け入れられなかったのでしょう。マタイとマルコがこのエピソードを重要視しているのは、私たちにとっても大切な意味があるからです。私たち自身にも「ナザレの人々と同じ不信仰」が潜んでいるからです。私たちは「聖書について、教会の教えについて、この教会のことについて」知っていると思うほど、イエス様が今日、ここで、私たちになさろうとしていることを受け入れなくなるのです。聖書には「今日、み声を聴くこと」の大切さが繰り返し述べられているのです。

 福音書の中で、「イエス様が驚かれた」というエピソードが二つあります。一つは今日の箇所で「故郷ナザレの人々の不信仰に驚かれた」ということ、もう一つは「異邦人である百人隊長の信仰に驚かれた」(ルカ7:1~10)ことです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちは、どちらの意味でイエス様を驚かせるでしょうか?
 私たちの信仰、それとも不信仰?

2024年6月30日<br />年間13主日  マルコ5:21~43

「タリタ・クム(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)」

 今日の福音の朗読箇所は、会堂長ヤイロの娘(12歳)の死からのよみがえりと12年間病気に苦しめられていた婦人のいやしのエピソードです。この二つの奇跡はガリラヤ宣教の活動の中でも注目に値するもので、マタイ、ルカもこの奇跡について記述していますが、マルコ福音書の描写がとりわけ生き生きとしています。マルコだけが会堂長の名前「ヤイロ」を記しています。会堂長といえばその町の名士であり、有力者でした。しかし彼は自分の地位や名声を使ってイエス様を呼び寄せるのではなく、自分自身で、一人の父親の姿でイエス様に近づき、足もとにひれ伏し、切に願います。娘が死にかかっているので、娘に手を置いて下さい、そうすれば娘は助かるでしょうからと懇願します。イエス様もすぐに「それでは一緒に行こう」と答えて、家に向かい始めました。すると大勢の人々がついて来て、まわりに群がりました。その中にもう一人イエス様のあわれみと力を必要としている女性がいたのです。

 25節からこの病気の婦人が登場して、ヤイロの家に向かう道行が中断されます。群衆の中にいた彼女はそっと手を伸ばしてイエス様の服のすそに触れます。そうすれば、そうするだけで自分はいやされると信じていたからです。イエス様は突然立ち止まり、「誰かが私に触れた」と言い出し、その人を捜し始めます。弟子たちやヤイロは驚き、またなかばあきれたように言い出します。「先生、こんなに大勢の人たちがついて来ているのです。誰かが触ったことに不思議はないと思いますが……」。イエス様は「そうではない、誰かが私の助けを求めて、触れようとしたのだ」と答えます。この女性は自分の身に起こった不思議ないやしを感じて、怖れおののきながらも「私です」と名乗り出ます。イエス様はこの人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と宣言なさいます。彼女の身に起こったことが確かにイエス様の恵みによるものであることが強調されています。

 ヤイロの家に向かう途中、このような出来事のあったために、ついにヤイロの家から悲報が届きます。「娘は息をひきとりました。もう先生においでいただくにはおよびません」と。弟子たちやヤイロはがっかりしたことでしょう。「なぜ、先生はこんなところで道草を食ってしまったのか……」と。イエス様はヤイロに言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。まもなくヤイロの家に着くと、イエス様は事もなげに言われます。「娘は眠ってしまったのだ、私は彼女を起こしに行く」と。人々のあざけりや不信を何とも思わず、3人の弟子と父母だけを連れて部屋に入ります。そして一言「タリタ、クム」(娘よ、私はあなたに言う、起きなさい)と。

【祈り・わかちあいのヒント】
*何故、すぐに答えて下さらないか、と思う時にも信じますか? 祈りますか?

2024年6月23日
年間12主日  マルコ4:35~41

「いったい、このお方はどなたなのだろう」

 今日の福音朗読では自然に関する奇跡のエピソードが語られています。ある人々はイエス様の奇跡のエピソードについて、病気や死からのいやし、悪霊からの解放など人間の苦しみを救う奇跡なら救い主としての奇跡にふさわしいが、嵐を静めるなど、自然現象に対する奇跡は理解することがますます難しいと思っているようです。旧約聖書には、神のみが嵐を起こし、海に境を設けることが出来ると記されています。苦難を心身に受けた義人ヨブが、神の意思を測りかねて問うた時、神は嵐の中から答えられました。「わたしが大地を据えた時、おまえはどこにいたのか」(ヨブ記38:4)と。創造主である神のみが自然を支配できるということを意味しています。

 イエス様は「向こう岸へわたろう」と言い出されます。何のためか、何故そうするのかについて何も語っていません。これは、出エジプトにおいて紅海を渡ってあるくこと(この渡る=オブリームということばから「ヘブライ人」という名前が始まったのです)を命じられた主のことばを思い出させます。海は砂漠の民にとっては恐ろしいものでした(黙示録21:2)。しかし、神は海さえも支配するものであることを示されたように、イエス様はこの嵐の湖でご自分が主なる神と同じ権能・権威をもつお方であることを示されるのです。舟は教会のシンボルです。その帆柱は十字架、舟を動かす風は聖霊、そこにいるのはイエス様と弟子たち、まわりの水は嵐のように狂乱怒涛、しかしイエス様がともにいるのです。外界のさわがしさと対照的なイエス様の姿を見て、弟子たちは驚き、また不安になります。あわててイエス様をゆりおこす弟子たちの困惑に対して、イエス様は威厳をもって命じられます。嵐が静まったのを見て、弟子たちは新たな恐怖とおののきに襲われます。「この方はいったいどなたなのだろう? 風や湖さえも従うとは……」

 この舟の中の弟子たちの姿は私たちの姿によく似ています。私たちの信仰も物事が順調な時はとても意気盛んです。陸地で群衆の前にイエス様といる時のように。しかし安全な陸地を離れて不安定な湖に乗り出した弟子たちは、嵐によって沈みそうになってしまいます。プロの漁師であり舟の扱いには慣れている彼らでさえ、もはや手の施しようがありません。私たちもそれぞれの生活の中で不安の嵐や闇に閉ざされる時に、この弟子たちのように不安におびえ、叫び出してしまいます。すぐそばにイエス様がおられることを忘れて……。「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか?」弟子たちの叫びはなんとも素朴で、直截的な信頼と不安が混在しています。イエス様もさぞ苦笑されながら言われたことでしょう。「なぜ恐れるのか」と。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちを今取り巻く荒波はどのようなことでしょうか?

2024年6月16日
年間第11主日  マルコ4:26~34

「神の国を何にたとえようか」

 今週から年間主日の典礼季節となりました。今年はB年ですので、年間主日の福音はマルコ福音書が継続的に朗読されます。今日の福音朗読はマルコの4章からです。マルコ福音書の1章21~45節には第1の奇跡物語が収録されています。来週の年間第12主日から第14主日までは、マルコ4章35節から6章6節までの第2の奇跡物語がまとめて読まれます。この第2の奇跡物語は物語風の描写が豊富で、イエス様だけでなく多くの人物が登場します。弟子たち・会堂長ヤイロ・長患いの女性などで、その中心的なテーマはイエス様と出会い、交わりをもつ人々の「信仰」です。

 このマルコ福音書の第2の奇跡物語の直前におかれているのが、今日の福音朗読箇所なのです。この小さなたとえ話はマルコ福音書にのみ登場するもので、「成長のたとえ」と呼ばれることがあります。「春来草自生」(春来たらば、草おのずから生ず)という禅語がありますが「一心につとめていれば、しかるべき時に、自然と草木は芽を出すもの、焦りは禁物、じっとその時を待つ泰然自若の心こそ大事」という意味があるのです。イエス様の成長する種のたとえもまた、神様のタイミングというものの大切さを教えているのではないでしょうか? 時々、私たちは焦ってしまいます。「神様、神様、私たちがこんなに困って、こんなにお祈りしているのに、何故何もお答え下さらないのですか?」という思いにとらわれたりしてしまいます。しかし、神様の方からすれば、「こんなにこれまで、多くのことを与えて来たのにどうしてそれを生かさなかったのか?」と神様をやきもきさせていたのかも知れません。神様の時は「永遠の今」、すなわち遅すぎることも早すぎることもない、神様だけがなしうる絶妙の時、タイミングがあると信じることが大切なのです。

 もう一つのたとえはからし種のたとえです。「地上のどんな種よりも小さい」といわれる種が、やがて「空の鳥が巣をかけるほど大きな枝をはる」ように成長してゆくのです。神様が私たちの心に蒔こうとされているものは目立たぬ小さなものですが、それは成長してゆくものなのです。その種を枯らしたり、空の鳥に奪われたり、茨や雑草で覆ってしまわない限り、私たちの心にどっしりとした根を張るのです。わずかなきっかけ、小さな出会いが、やがてイエス様を通して、父なる神の大きな愛につながってゆくのです。このたとえ話のあとに登場する様々な人々は、病気をはじめとする苦しみの中にあって、イエス様と出会いました。そしてそれぞれの人は、その人の持つ信仰によって、「奇跡」に出会うのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちの心に蒔かれた小さな種とはどんなことでしょう?
*イエス様に出会えたことは小さな奇跡では……?