今日の福音

稲川神父の説教メモ

2025年2月16日年間第6主日 ルカ6:17,20~26

「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」

 今日の福音はルカにおける「平地の説教」の冒頭です。マタイでは山上の説教と呼ばれ、3つの章にわたり106節も記述されているのに、ルカではわずかに30節のみです。しかし、その内容はナザレでの最初の説教「貧しい人に福音が語られる」ということからすでに始まっているのです。有名なマタイの山上の説教では「心の貧しい人は幸いである、天の国は彼ら(三人称)のものである」と記されていますが、ルカの平地の説教では「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と二人称で語られていることはルカの特徴となっています。

 自分を頼みとして自己中心的に生きる人の不幸と神を中心に生きる人の幸いが明確にされているのが、ルカ福音書の記述によってよりきわだっています。それを強調するのが、第2と第3の幸いと不幸を語る際に使われている、「今」飢えている、「今」泣いている、「今」満腹している、「今」笑っているという「今」ということばです。現在の状態に安住してしまい、自分だけが満たされていることで周りの人々、神様の思いに気がつかない人はやがて不幸な状況へと転落してゆくのです。「今」の状態の厳しさ、困窮、困難にあっても神様への信頼と自分がなすべきこと、進むべき道について迷いのない人は幸いな人なのです。

 周りと比べて自分を不幸と思いやすいのが人間です。神様に、すぐに結果となって現れることばかり祈り求めてしまいやすいのが人間です。すでに生きるために必要なものが多く与えられているのに、わずかに不足しているものにとらわれて嘆いてしまうのが人間です。「辛いという字はもう少しで幸せになれそうな字である」と星野富弘さんが言っていましたが、神様の望みは人間を不幸に陥れることではなくその反対です。神様が決して私たちを見捨てないという宣言が、この平地の説教の根幹にあります。そうでなければイエス様を遣わすはずがありません。イエス様は、地上の有様を視察するためにだけ来られたのではなく、この地上に神の国(神様の愛といのちによって統治される状態)を打ち立てるために来られたのです。ただイエス様のなさり方は権力や富、法や掟による強制ではなく、「心の一新、回心、刷新」による変革であり、神の子としての成長を粘り強く呼びかけるというものです。それは悠長で、冗漫で、悠遠で、すぐには目に見えるものにはならないと言われるやり方です。なぜ、神の子が十字架に上るのか、そこにイエス様の愛の神秘があるのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*「今」あなたは「幸せ」それとも「不幸」ですか? なぜ不幸だと思いますか?

2025年2月9日
年間第5主日 ルカ5:1~11

 イエスさまは宣教活動の初期から弟子たちを集められました。今日は最初の弟子たち、すなわち、ペトロ、アンドレア、ヤコブ、ヨハネの4人が呼ばれた時の出来事が語られます。イエスさまは何故、漁師たちをご自分の弟子にされたのでしょうか? 漁師たちは、陸地にいて安定した仕事をする人たちではありません。自然という、人間の努力だけではどうにもならない世界で生きている人たちです。ガリラヤ湖(ルカ福音書ではゲネサレト湖)という小さな湖ですら時には嵐で沈みそうになったり、一晩中働いても1匹の魚もとれなかったり、彼らの努力だけでは成り立たない仕事です。それゆえ、ペトロたちは、陸地にいて安定した商売や仕事をしている人たちよりも神様の恵み、神様への信頼を強く意識していたのではないでしょうか? 「お言葉ですから、もう一度、網をおろしてみましょう」このペトロの言葉は、ルカ福音書における弟子たちの最初の言葉です。人間の目から見れば可能性のないことでも、キリストの言葉なのだからもう一度信じてみよう、やってみようという素直さとけなげさ、信頼の厚さこそが、イエスさまを信じるすべての人に必要な姿勢なのです。そして神様も、何度でも、回心の見込みの少ない人間たちに対してもあきらめずに救いの網に入るようにと働きかけて下さるのです。それゆえ、キリストの弟子たちに絶望とか、あきらめという言葉はないのです。

 今日は召命の3つの要素についてお話ししましょう。

キリストが望み、その人を呼ばれる
ある人が司祭、修道者に呼ばれる時、それは決して自分の望みとして司祭や修道者になりたいのではありません。そのような望みを感じた時、その人自身は「まさか、どうして私はそんなことを考えるのだろう。私はこんなに不完全で弱い、これは思い違いだろう」とかえって戸惑いを感じるのです。
もしあなたのお望みでしたら、み言葉の通り、この身になりますように
しかし、何度否定してもそれが繰り返し強くなって、「これはもしかして! キリストが呼んでいるのでは?」と思い当たる時が来るのです。それを内的なしるしと呼びます。その内的なしるしはSine Causaとラテン語で言われるように、自分自身の中には思い当たるふしがないのに、キリストの呼びかけを感じることであり、また、それがキリストのお望みなら無条件に従いたい、という全人格をあずけての「はい」が必要なのです。
共同体の確認
キリストの呼びかけと本人の「はい」は内的なものです。神学校や修道院の扉を叩いてからの長い修練や養成課程の中で、それが本物かどうか、共同体が見極めてゆくのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*誰もが一度は司祭や修道者になることを考えると言われますが、あなたは?

2025年2月2日
主の奉献  ルカ2:22~40

  「わたしはこの目であなたの救いを見た」

 毎年、主の降誕から40日後「主の奉献」の祝日が祝われます。幼子イエスが聖母マリア様と聖ヨセフ様とともに初めて神殿を訪れます。イエス様の生涯において、神殿は度々重要な場所として描かれます。12歳の時に3日間、その姿が見えなかったこと(ルカ2:41~50)には、イエス様の復活までの3日間が早くも暗示されています。また「この神殿を倒してみよ。私は3日でこれを建て直す」ということばも復活を示すものです(ヨハネ2:19~20)。神殿は「父の家、祈りの家」であるとイエス様は宣言されており、その名は私たち教会の聖堂にも受け継がれています。そして、その場所で聖霊に満たされたシメオンとアンナに出会い、この幼子が救い主であることがこの2人の男女、アダムとイブを連想させる人物によって、人々に告げ知らされるのです。

 この2人は、メシアの到来を待ち焦がれていた旧約時代の義人を代表する者として幼子イエスと出会います。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっており、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを受けていた」と記されています。シメオンは貧しげな家族に出会い、その幼子を見て、腕に抱き上げ、神をたたえて言います。「主よ、今こそお言葉のとおり、しもべを安らかに去らせて下さい。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」とシメオンは賛歌を捧げます。このシメオンとアンナは、イエス様を受け入れるイスラエルの共同体を代表するものとなります。イエス様たちは「モーセの律法に従って、清めの期間を過ごした後に、初めて生まれた男の子を捧げるため」に神殿にやって来たのです。神殿には正しく、信仰の厚いシメオンが待っていました。アンナも神殿から離れることなく、夜も昼も神に仕えていた人物です。私たちもイエス様に会いたい、見たいと望むならば、「待つ」姿勢が大切です。それは何もせずにただ時を過ごすということではなく、神様のみ旨を思いめぐらし、隠れてお出でになるイエス様に気がつかなければなりません。

 他の人々にはイエス・マリア・ヨセフの3人はどこにでもいるような平凡な家族にしか見えなかったかもしれません。しかし、心からメシアを待ち望んでいたシメオンには、この幼子とその母の姿に、他の何者にも持ちえない神様との純粋で光り輝いた絆が感じられたのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちはこの幼子を見て、メシアを感じることができるでしょうか?

2025年1月26日
年間第3主日 ルカ1:1~4,4:14~21(神のことばの主日)

「敬愛するテオフィロ様」

 年間第3主日の福音はルカ福音書の冒頭のことばが朗読されます。他の福音書にはない、そしてルカ福音書らしさが生き生きと表れている箇所です。テオフィロが初代教会においてどのような人物であったのかはいろいろ論議されるところですが、興味深いのはこの人物の名前が「テオ=神を、フィロ=愛する者」という意味を持っていることです。すなわちルカは1人のキリスト者のためにこの福音書を書き記すと同時に、「神を愛する」すべての時代の人々、すなわち私たちのためにもこの福音書を書き記したと思えるのです。

 福音朗読は、この冒頭のことばに続き、イエス様の宣教の第一歩が故郷であるナザレの村の会堂で安息日から始まったことを語ります。預言者イザヤの書の一節を読み、旧約の預言がご自分において実現することを宣言されました。それは「貧しい人に福音を告げ知らせること、とらわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人を自由にするという『主の恵みの年』を告げること」であり、このことがご自分の使命であることを明らかにされたのです。

 ナザレという村はイエス様のお育ちになった村として今は有名ですが、当時のイスラエルにおいてはガリラヤの中でも最も貧しい地域という評判がありました。ナタナエルがフィリポから「ナザレのイエス」について聞かされた時、「ナザレからよいものが出るだろうか?」と問い返しているのは、そのような当時のナザレの印象があったからだと言われています(ヨハネ1:43~51)。ファリサイ人や祭司長たちも「ナザレ」出身の民間のラビに過ぎないとイエス様を受け入れなかったのは、ガリラヤという異邦人と混在している辺境の地であり、エルサレムのような正統的な場所での育ちではないという軽蔑した気持ちが絶えずあったからなのです。このナザレの名はやがてピラトが書いた罪状書きによって全世界に知られることになります。「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(十字架の上にI.N.R.I.の略号で記されていることば)と。

 イエス様の誕生の地はベツレヘムでした。このベツレヘムについてもミカ預言書には「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」(ミカ5:1)と記されています。神様のご計画は人間の考えるような壮大さや華麗さとは正反対に実現するのです。それは最も小さき者、それゆえに神様だけしか頼ることが出来ないほど貧しい者にこそ、神様の愛の手はまず差し伸べられるのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちの教会共同体は「ナザレ」のように貧しく、謙遜でしょうか?

2025年1月19日
年間第2主日 ヨハネ2:1~11

 降誕節が終わってから四旬節が始まるまでの間、主の洗礼の祝日から年間と呼ばれる日曜日が数回続きます。年間と呼ばれる主日には、イエス様の公生活、すなわち宣教の活動の一場面が朗読されてゆきます。さて、今日の福音は、C年ですがルカ福音書ではなくヨハネ福音書から朗読が行われます。それはヨハネ福音書のみが記しているカナの婚礼での出来事です。ヨハネ福音書の1~12章は、「しるしの書」と呼ばれるように、イエス様の「7つのしるし物語」を中心として、イエス様が誰であるか、またそのイエス様を信じることとはどのようなことであるか、ということを意味深く展開してゆきます。

カナの婚礼には、イエス様を知るためのいろいろな手がかりやしるしが残されています。

「3日目に」とは?(3日目に起こった大いなる出来事とは?)
「イエスの母がそこにいた」とは?(イエスの母はあの十字架のもとにもいたのでは?)
「婚礼」とは?(婚礼と男女の出会い、愛による生活、イエス様は神様と人間を出会わせ、愛によって結びつけるためにやって来られたのでは?)
「婦人よ」という呼びかけは?(あの十字架のもとでくりかえされることばでは?)
「この人の言う通り、何でもして下さい」という母の言葉は?(私たちに求められている信仰の姿勢では?)
しもべたちの行ったことは?(水を汲むという単純な労働の繰り返しだが?)
「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」という世話役の驚き? (最初はこんなことと思うことがやがて……神様らしいやり方では?)
 ヨハネは、私たちがイエス様と今日出会うために「確かな」手がかり=しるしを残してくれているのです。それゆえ、そのしるしを手がかりにして生きているイエス様を探すことこそ、私たち信仰者に必要な態度、心構えなのです。

 ヨハネにとって信仰とは「受動的なもの」ではなく、しもべたちのように実際に汗を流し、時間と手間をかけてイエス様とともに働く中で「やがて気がつくこと」なのです。「このお方だ! これをなさったのは!」と。イエス様は人間の努力、協力を求めています。私たち人間だけの力では、水=この現実の世界をブドウ酒=人々を喜ばせる世界には出来ません。しもべたちの努力の上にご自分の力によって祝福される時、水という単純なものがブドウ酒という人々を喜ばせるものに変えられたのです。私たちはまだ水を汲んでいません。あるいは水を汲むことに飽きてしまっているのでは……

【祈り・わかちあいのヒント】
*6つの石のかめとは何のことでしょうか?(私たちの働くべき日は何日?)