「わたしの父のみこころは子を信じる者がみな永遠の命を得ることである」
11月1日は諸聖人の日として、キリスト教国においては守るべき祝日となっております。また年間主日の最後を締めくくる「王たるキリスト」は終末すなわち神の国の完成の時、そして最後の審判の時を思い起こさせます。この11月は死者の月と呼ばれ、諸聖人に続いて、2日はすべての死者のために捧げられた日となっています。歴史的には998年にクリュニー修道院のオディロンによって始められたものであり、11世紀にはローマ教会に広く行なわれるようになっていました。
さて、死者の日の福音はヨハネ6章から朗読されます。そこには「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」と語られています。復活とはラザロのよみがえりのように今地上にあるこの姿に戻るということではありません。人の子でありながら、イエス様と同じく神の子としての栄光をわたしたちが戴くことです。
イエス様はこのようなすばらしい恵みに多くの人を与らせるために、神の子でありながら、人の子としてこの地上に生まれ、わたしたちに神の子として生きる道を教えられ、さらにはアダムの原罪によって閉ざされていた天の門を自らの命を十字架において捧げることにより開いて下さったのです。こうして、キリストを信じる者にとって死は終わりではなく生命への新たなる門となり、この世の生活を終わった後にも天に永遠の住家が備えられているのです。死それはわたしたちのこの地上の誕生と同じく、神様が与えてくださるものとして受け止めるのです。事実、わたしたちは自分の生涯においては一日が過ぎ去れば、その一日をもう一度、生きることは出来ないのです。その意味でわたしたちは毎日、一日ずつ死んでゆくのです。それは決して怖いことではなく、むしろその一日を無意味に過ごしてしまうことをこそ、恐れるべきなのです。
死者の日、それは単なる悲しみや追悼の意味だけではなく、生命の与え主であるお方、父の御心を知り、キリストのようにその御心を行なう人こそ、天に生まれる人となることを思い起こす日ではないでしょうか?
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしが天国に持ってゆけるものはなんでしょうか?