2025年8月17日
年間第20主日  ルカ12:49~53

 先週の福音に続く箇所ですが、イエス様の厳しいことばが語られています。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである……私には受けなければならない洗礼がある」。イエス様は御父から送られた最後の預言者としての使命を自覚しておられるのです。また「受けなければならない洗礼」とはゼベダイの子らの願いに対して「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか?」(マルコ10:38)と問われていることでわかるように、受難・十字架の苦難を示すものです。「洗礼」とは水に沈められることを意味し、「死」の象徴であるとともに「新たな生命」への誕生を意味します。

 イエス様のことばがここまで厳しいのは、イエス様にとって受難・十字架は決して避けては通れない道であり、御父の望みを果たすためにはこのような苦難の道のりを引き受けるという決断がなされていたことを表わしています。このイエス様を信じるということは、単なる心の中の思いだけで済むものではなく、「私に従いたいのなら、自分の十字架を負って日々、私についてくるがよい」(ルカ9:23)とのことばのとおり、イエス様と同じ道に招かれているということです。思想として、哲学としてイエス様の考えを受け止めるだけでは、信仰者ではありえません。イエス様と同じ生き方を受け入れることが私たちの受けた「洗礼」の意味なのです。12人の弟子たちはその覚悟を持っていたはずです。しかし、実際の十字架の場面ではみな逃げ出してしまいました。あのペトロですら、イエス様のことを「知らない、関係がない」と否認してしまいました。イエス様はそれでもペトロたち12人を罰したり、叱りつけたりすることはありません。「心は熱していても肉体は弱い」ことをイエス様は知っておられるのです。ペトロたちがイエス様と同じ十字架・苦難の道を歩むことが出来るようになったのは、イエス様の十字架・復活の後のことです。

 信仰には、「狭き門、けわしき道」をあえて選び、そして実際に苦労しながら歩まない限り理解することが出来ない面があるのです。しかし、その苦労も信仰によって戴く神様の大きな愛、信頼、安心、喜びに比べれば、小さなものに過ぎないのです。ペトロは湖の上を歩いてイエス様のところに近づきたいと願ったにもかかわらず、仲間の乗る舟から離れ、まだイエス様のそばに到達するまでは少し距離があるところで、自分の足元の波や水におびえてしまい、イエス様から目を離したその時、水の中に沈んでしまいました(マタイ14:22~33)。信仰の要諦は「イエス様から目を離さないこと」なのです。もう一度、イエス様についてゆくか、私たちも決断を新たにしなければなりません。「主よ、あなたをおいてどこに行きしょう」と私たちがミサの中で答えているのはただのことばだけはないはずです。ならば私たちの生き方は変わるはずなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたは何をイエス様にお願いしたいですか?