2025年8月3日
年間第18主日  ルカ12:13~21

 今日のテーマは地上の富に対する根本的な心構えです。第1朗読の伝道の書(コヘレトの言葉)では、富は人を幸せにする保障にはならず、少なすぎても多すぎてもともに人を苦しめるものであることが説かれています。第2朗読では、使徒パウロは「上にあるものを求めよ」と語り、「貪欲は偶像崇拝にほかならない」とまで喝破します。さて、福音朗読ではある人の遺産相続に対する訴えがきっかけとなって「この世の富」についてイエス様のたとえ話が語られることになります。

 当時の律法によれば、遺産相続の際に長兄に3分の2、その他の兄弟に残りの3分の1が分割されたようです(申命記21:17)。ところが長兄から、あるいは他の兄弟からこの人は何ももらえなかったのかもしれません。律法学者たちはこのような相談にも応じる、いわば弁護士のような役割をしていましたが、イエス様はめずらしいほどはっきりとこの申し出を拒絶しています。イエス様は、富は物質にすぎないのに、何故人間は富に振り回され、人間らしさを失い、人を殺したり争ったりするもとになるものに翻弄されるのかと嘆いておられます。富はあくまでこの世に生きている間だけ必要なものであり、また多くを集めたからといってそれがその人に幸せな人生を保障するものではないことを指摘します。つまり、手段に過ぎないものにまどわされ目的とすべきことまで見失ってしまう人間の陥りやすい傾向、欠陥に注意するように促しています。

 日本の社会では、年金だけでは足りず2000万円を自分で用意しなければ、ということが話題になりました。確かに老後にお金の苦労はしたくありませんし、これまで国のいうことを信じてちゃんと支払ってきたのに年金だけでは老後の生活が保障されないとなれば大きな問題です。しかし、年金や保険制度が完全に整備されたからといって人間がそれだけで幸せに生きられるものではありません。その人の人生が幸せかどうかは「物を持つこと」ではなく、「その人が人として受け入れられること」、また「その人が自分の人生に目標を持ち、生きがいのある生き方をしていること」にかかっているのです。中国のことわざに曰く、「錦を着て憂うる者あり、水を飲んで笑う者あり」と。イエス様は言われます、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と。私が今、持っているもの、この生命も、性格も才能も時間も、そしてお金も、「私のものだ」と独占してしまうべきものではなく、「神のため、神が愛しておられる人々のため」にいかに用いるかが神様によって問われているのです。「あまっているからどうぞ」ではなく、「これは自分のために用意したものですが、今のあなたには私以上に必要なものですからどうぞ」と言える人、行なえる人こそ幸いな人とイエス様は言いたいのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私が今持っているもので天国まで持って行けるものは何でしょうか?