ルカ福音書15章には「神のあわれみ」に関する3つのたとえ話が記されており、「福音の中の福音」とも呼ばれる父なる神と子であるイエス様のいつくしみの心の真髄が語られています。イエス様の福音とは「父の心を子に向けさせ」(ルカ1:17)、「イエスの名によって罪のゆるしを与える回心が万民にのべ伝えられる」(24:47)ことなのです。
さて「放蕩息子のたとえ」の要点・プロットは
弟息子は自分の力を試したい、自分の夢を実現したいと考えたのか、父が生きているのに、頂くことになっている財産を分けて下さいと願い出ました。
父はその願いを聞き入れ、弟息子は遠い国に旅立ちました。
弟息子は本来の夢を忘れてその場だけの楽しさに溺れてしまい、気がついた時には無一文、無一物になって、自分の実力で出来ることは豚の番人の仕事。
やがて、父の姿、雇い人たちに対してさえも深い思いやりがあるからこそ人々に慕われ、信頼され、成功者となっていることに気がついて。
今の自分が父に対して出来ることは何だろうと考え始め、「ありのままの自分の姿でよいから」父に詫びたい、息子としてでなくとも、しもべの身分でもよいから「父のため」「父のそばにいたい」と決意し、無一文、無一物の旅へと歩み出す。
父は弟息子が出て行った日以来、ずっとその方角を見つめていた……だからこそ誰よりも早く「帰ってきた弟息子」に気がつき、自ら迎えに出る。
弟息子が謝罪のことばを述べる前から「息子」として受け入れている。
「たとえ話の中のたとえ話」とも言われる「放蕩息子のたとえ」をもう一度、よく「聴いて下さい」(聞くではなく聴くのです)。回心した者にあわれみが与えられるのではなく、神様が深いあわれみにより私たちを受け入れて下さるから、また包み込んで下さるから、私たち人間は回心できるのです!
ルカの描くイエス様の姿はまさに「神様の深いあわれみ」の見える姿、生き方なのです。その頂点はルカ23:33~43の十字架上のイエス様のことばとわざです。ご自分にくぎを打ち込む人々をゆるすように父に祈るイエス様の姿を見て、一人の盗賊は驚き、かつ感動し、「なぜこの方はそのようなことが出来るのか! このお方は神様といつも一緒におられるのではないか! このお方は神の子そのものなのではないか!」と感じたのかもしれません。この盗賊と異邦人の百夫長の2人が「この人はまことに神の子」と気がついたのでしょう。
【祈り・わかちあいのヒント】
*自分のしたいことの中に本当の幸せはありましたか?
*自分のためではなく誰かのために本気でしていることはありますか?