このエピソードもエルサレムに上る途中の出来事でした。重い皮膚病(ハンセン病)を患っていた10人の人々がイエス様に近づいてきます。しかし、遠くに立ったまま声を張り上げてあわれみを願います。この種の病気に罹った人たちは家族からも離れ、仕事も出来ず、人々から離れて生活しなければなりませんでした(レビ記13:45~47)。レビ記の13章から14章にこの病気のことについて詳細に述べられています。
イエス様は直ちに「祭司たちのところに行き、体を見せなさい」と命じています。レビ記の14章には重い皮膚病を患った人が清めを受ける時の指示が詳しく記されています。その清めの儀式は8日間かかるものでした。彼らは祭司のところへ行く途中に清くなりました。しかし、1人を除いては、早く清めの儀式を終えて、家族のところ、自分の町に帰りたかったのでしょうか、そのまま先に行ってしまいました。その中の1人だけが、自分の身に起こったことを知り、イエス様に感謝するために戻ってきました。体をなおされたのは全員です。しかし、イエス様によって「心までがいやされた」のはこの人だけでした。その他の人は、きっと後でイエス様に感謝すれば良いと考えていたのかもしれませんが、その時イエス様に会えるとは限らないのです。思っていても行なわないことは何もしないことと同じなのです。
信仰とは、ただ頭の中、心の中で「思い」をもっていれば良いのではなく、必ず「ことば」として語り、「行ない」として表さなければ意味がないのです。私たちは「頭や心」でキリスト者であっても、「ことば」でそれを誰かに語っているでしょうか? また、私たちの思いを「行ない」によって表しているでしょうか? 「いつか言うつもり」や「いつかするつもり」ではなく、「今、ここで、このために」(ラテン語ではHic et nunc, ad hoc)でなければ「無」に等しいのです。
このただ1人戻ってきた人は、イスラエルの人々から見れば異教徒と交わって真の神の民とは言えないサマリア人でした。感謝は人間としての基本的な在り方です。どの時代においてもどの社会においても、感謝という基本的なことが忘れ去られていたり、軽視されたりしているならば、その人間、その社会は決してうまくいっているとは言えないと思います。私たちカトリック教会のミサは別名としてユーカリスチア、すなわち感謝の祭儀と呼ばれていることを思い起こし、神様と人々に感謝しつつ、信仰の道を歩まなければならないと思います。
【祈り・わかちあいのヒント】
*「後でやるつもりだった」という言い訳は神様には通じないようですが……