「人の子も上げられなければならない」
今年は十字架称賛の祝日が日曜日にあたるため、年間第24主日に代えて祝われます。日曜日に代わるほどの祝日とはどのような意味があるのでしょう。それは「秋の聖金曜日」と言ってもよいほどの意味があるのです。伝説によればキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の母へレナ皇太后が320年9月14日に聖十字架を奇跡的に発見したという言い伝えがあります。また335年、エルサレムの聖墳墓教会(ゴルゴタの丘と復活の墓全体を覆うように作られた教会)の献堂式が9月13日に行われ、翌14日に聖十字架が公開され、崇敬されたのを機に、東方教会、やがて全教会でこの祝日が祝われるようになったという経緯があります。
今日、用いられる叙唱に述べられているように、「あなたは人類を十字架の木によってお救いになり、木から死が始まったように、木から生命を復活させられた」のです。ピエロ・デラ・フランチェスカの名作「聖十字架伝説」のフレスコ画には、アダムが死んだ時、息子のセツが、アダムたちが食べてしまった禁断の木の実(善悪の知識の木の実)の種をその口に含ませて葬ったところ、やがてそこから1本の木が生え出でて、様々な経緯を経て、キリストの体を天と地の間に捧げる十字架の木となったことが描かれています。
古代ローマ時代にはもっともおぞましい死の象徴であった十字架ですが、唯一人のお方によってその意味が変わってしまいました。歴史学者の調査によれば、イエス様が十字架に架けられた1世紀、その100年間に約3万人の人々が十字架刑に処されたとのことです。2000年を経た現在、私たちはイエス様以外の2万2999人の名前を誰も知りません。十字架といえばイエス様、イエス様といえば十字架というほど、このシンボルはキリスト教の代表になりました。それは、神の子が私たちのために「死をも辞さないほど徹底的な神の愛」を永遠に示されたからなのです。その意味でイエス様はニコデモに「人の子は上げられなければならない」と語られています。それは、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」なのです。そして、キリストを信じる人々に「自分の十字架を背負って私について来なさい」と言われるのも、ご自分と同じ栄光にわたしたちをあずからせるためなのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*十字架は「死をも辞さない強い愛」のシンボルです。あなたにとって死をも辞さないで愛せるものがありますか?