2025年8月24日
年間第21主日  ルカ13:22~30

 今日の福音も、エルサレムに向かう旅、すなわち弟子たちの信仰教育を行なうイエス様のことばが語られています。「救われる人は少ないのですか?」という質問は、当時の人々が特に興味を持って論じていたテーマと言われています。黙示録の中にも「救われる人は14万4千人」(黙7:4~9)と記されていますが、これは文字通りの人数ではなく、新しいイスラエル12部族の2乗に千をかけた数であり、イエス様を信じるすべての人々を象徴する数字と言われています。つまり、救われることを望む人にはイエス様に従う生き方・信仰が求められているということなのです。

 イエス様は議論のための議論に時間を費やすよりも「今の時を生かしなさい」ということを強調されています。マタイでは「狭い門から入りなさい」(マタイ7:13~14)と語られていますが、ルカでは「狭い戸口から入るように努めなさい」という表現になっています。狭い戸口とは、その家の中では祝宴が行なわれているからといって誰でも自由に入れるわけではなく、招かれた人、ふさわしい人しか入れないことを意味します。家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまってからでは入れないのです。その人々は抗弁します。「私たちはかつてあなたとご一緒に食べたり飲んだりしました」と語っていますが主人は聞き入れません。

 このたとえは私たちにも問いかけているように思えます。かつて洗礼を受けたからではなく、今、その洗礼の恵みを生かしているか、かつてはよく祈ったからではなく、今、誰のため、何のために祈っているか、かつてはよく奉仕したからではなく、今、目の前にいる人のために何をしているかが問われているのです。かつて叙階を受けたからではなく、今、その叙階の使命を果たしているかが問われているのです。かつて結婚したからではなく、今、その結婚の誓いを実現するように努めているかが問われているのです。

 私たちはしばしば「キリスト者である」ことに安住してしまい、「キリスト者であり続ける」ための努力、すなわち学び、祈り、奉仕するということについて関心を失ってしまいがちなのです。イエス様は弟子たちを見て、彼らが弟子であることに安住してしまうことなく、弟子として日々、学び、祈り、奉仕することに努めなさいと呼びかけています。「外へ投げ出され、他の人々が東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」といわれているように、招かれていながら、今、その招きにこたえるにふさわしい生き方をしていないと、神の国への入り口、戸口を私たち自身が狭くしてしまうのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*信仰は過去何をしてきたかではなく、今、何をしているかが問われるのです。