2025年5月4日
復活節第3主日  ヨハネ21:1~19

 ヨハネ20~21章において、イエス様の出現が様々な形で語られています。空の墓を見て信じる「愛する弟子」、涙のゆえに最初の出現を受けるマグダラのマリア、イエス様にことばをかけて頂くまで不信に苦しむトマス、そして今日は弟子たちに対する3回目の出現が朗読されます。

 ティベリアス湖畔での出現です。ガリラヤ湖と記さなかったのは何故でしょう? このエピソードはルカ5章1~7節における最初の弟子たちの召命を連想させます。ヨハネは最後の章にもう一度、弟子たちの原点、すなわちイエス様との関わりを強調しているのでしょう。弟子たちの名前が何人か記されており、その合計は7人です。なぜ12人ではなく7人なのでしょう? この「7人」という弟子たちの数は、4000人を養った時にあまったパンくずを入れた「7つ」というかごの数と一致します。12はイスラエルを象徴する数字であり、7は全世界の人々を象徴する数字であることを考えると、3度目の出現における証人となる7人には、全世界への派遣ということが暗示されていると考えられます。

 そして、この箇所の特徴は、「気がつくヨハネ、飛び込むペトロ」の姿です。多くの魚が取れた! そのしるしを見て「主だ」と気がつくのは「主に愛された弟子」ヨハネです。愛されているとは「心が通い合っている」ことなのです。だから誰よりも早く「主だ」と気がつくのです。信仰とは「気がつくこと」「心が通い合うこと」「人々にイエスの存在を告げること」なのです。そして、ペトロは信仰のもう一つの側面を表します。ペトロは「主だ」と知らされると「上着を着て水に飛び込んだ」と記されています。常識に反するこの行いは何を表しているのでしょう? 泳ぐためにはむしろ着物を脱ぐはずです。裸では失礼だから……という理由もあるかもしれません。しかし、それよりもペトロの決意を表していると思います。ペトロは3度もイエス様を「知らない」すなわち「関係がない」と裏切った思いを忘れていません。今、もう一度、あのガリラヤ湖での最初の出会いに立ち戻って「今度こそ、どんなことがあっても、十字架の上にでもついて行きます!」という弟子であるペトロの決意を表しているのだと思います。信仰とは「行い・生き方をもって表す心」「イエス様のいるところに自分もいること」という行動的なあり方なのです。ヨハネの表した信仰の側面、ペトロが表した信仰の側面、そのどちらが欠けてもキリストの共同体である新約の教会は成り立たないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたはペトロ的? それともヨハネ的? それとも……?