「その人に向かって『エッファタ』と言われた」
今日の福音朗読はマルコ福音書だけが記しているもので、耳が聞こえず舌の回らない人をいやされるイエス様の姿について語ります。このイエス様の姿は、第1朗読のイザヤ書が語るように人々を様々な苦しみから解放するメシアの姿です。「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。その時、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35:6)
聖書では病気が「罪」の状態を象徴していることがあります。ファリサイ人たちや群衆は目でイエス様の姿を見ていても、ただの大工に過ぎない人間としてしか理解しようとしません。彼らの目は見てはいてもイエス様の真の姿、神の子であることを受け入れようとはしません。わたしたちはどうでしょうか? 洗礼は受けていても、教会に来てはいても、自分自身の生活や人生の中でイエス様の教えに従って生きていなければ、いや生かされていなければこの人々と同じなのではないでしょうか?
人々が耳の聞こえず、舌の回らない人を連れて来て、いやしを願った時、イエス様はその人だけを群衆の中から連れ出され、指で耳を刺激したり、舌に触れたりされています。そして天を仰いで深く息をつき、『エッファタ』と言われます。これは『開け』という意味です。マルコ福音書はイエス様の言われたことばをヘブライ語のまま記しています。これは目撃していた人々の感動をそのまま伝えているためだと思います。「天を仰ぎ」とは、あの最後の晩餐でパンを手にして祈りを捧げ、「これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしの体」とご聖体を制定された時と同じ、祈りの姿です。
パンが、イエス様の手に取られ祝福される時、ご聖体に変化するように、人々の病もいやされ、またわたしたちの祈りも、イエス様の手に委ねられることによってイエス様の祈りとなるのです。ゆっくりと深くイエス様とともに祈れば、わたしたちの祈りもイエス様の祈りに近づくのです。『エッファタ』とはわたしたちに向けて言われたことばなのです。わたしたちの耳は音を聞いていても、その意味を深く悟っていないからです。わたしたちの口は、ことばは発していても、人々の心に響く、深さややさしさが足りないことがほとんどです。それゆえに人を傷つけ、苦しめてしまうことが多いのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちの心はどんなことに開かれなければならないでしょうか?