「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」 復活節・聖霊降臨に続く特別な典礼の季節が終わり、再び年間主日が王たるキリストの祭日(年間主日の最後)まで続きます。さて、今年は復活祭が早かったため年間主日が第10主日からとなりました。今日の福音朗読はマルコ福音書3章からです。マルコ福音書らしい率直さで、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」(21節)に当時の人々のイエス様の宣教活動に対するうろたえぶりが記されています。 さらには、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、イエス様をベルゼブル(悪霊の頭)に取りつかれていると言ったり、悪霊の頭の力を使って悪霊を追い出していると言いふらしたりしていました。人間が、自分が理解できないことを悪くとらえたり、非難したりしがちなのは、昔も今も変わらないことのようです。 今日の朗読箇所の後半にはもう一つのエピソードが語られています。それは、イエス様の母と兄弟たち(ヘブライ語には従兄弟を表す言葉がなく、近い親戚はみな兄弟と表現されていました)が訪ねてきたことです。その時、大勢の人々がイエス様を取り囲んでいたために、自分たちが訪ねてきたことを、人を使って知らせています。それは「わたしたちは親戚だから特別扱いするように」ということを暗示しているようです。しかし、イエス様の答えは明快であるとともに当時の常識を超えています。イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)と言い放ち、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(34-35節)と宣言されるのです。 わたしたちは人に出会うとき、その人の何に注目しているでしょうか? 時には経歴や学歴、あるいは社会的な地位や役職などによって、判断することもありますが、イエス様はこの地上における地位や役職にはこだわりがありません。イエス様にとって大切なのは、いつも、「神のみ心」なのです。「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)と。イエス様にとっては、アブラハムの子孫であるという血筋、モーセの律法を学んだという学歴が大切なのではなく、「知っていること」よりも「行うこと」が優先されているのです。その意味では、本当に知っているならば、必ずや行い、ことば、祈りになって表れるものなのです。 【祈り・わかちあいのヒント】 *わたしにとって父母、兄弟姉妹とはだれのことでしょうか? *イエスが言われる父母、兄弟姉妹とはだれのことでしょうか?