年間第3主日はイエス様のメシアとしての1日が語られます。マルコ福音書はイエス様の宣教の第一声を「①時は満ちた。②神の国は近づいた。③悔い改めて ④福音を信じなさい」という4つのキーワードにまとめています。実に福音宣教という、今日、わたしたちが頻繁に使っている教会用語は、マルコ福音書の用語だったのです。
この宣教の第一声と結ばれている出来事が語られています。それは4人の人々を弟子とすることでした。つまり、イエス様の福音宣教と召命は深く結ばれていることなのです。イエス様は福音宣教という行いを最初からチームワークすなわち教会としての使命と考えておられたのです。
時に対してギリシア語でクロノスという言葉とカイロスという言葉があります。クロノスは1秒、1分、1時間というように数えられる時間を意味しますが、カイロスは決定的な出来事、自分の人生において大きな意味のある出来事のあった時を意味するものです。時は精神的な意味を持つものなのです。
カイロスに近いニュアンスで、日本では「秋」という字を「とき」と読んでいました。秋は1年の実りの時です。しかし、台風がおそってきてその収穫のすべてを失ってしまうこともありました。それゆえ、実ったお米をどの時点で刈り取るのか、大切なタイミングを失えば、無に帰してしまうのです。
イエス様は時が満ちたと叫ばれましたが、それは2000年前のことではなく、常に福音を耳にする「今」のことなのです。「また後で」では間に合わないのです。「神の国は近づいた」とは、「神と人、人と人とがこれまでなかったほど親密で深い関係の中に生きる」時が来たことを意味しているのです。
悔い改めという言葉はギリシア語では「メタノイア」です。メタはこれまでのものを超えた、すなわち新しいという意味を持ち、ノイアとはノモス、すなわち思い、考え、心を意味する語です。メタノイアは「新しい心となること」、すなわち神と人とに心を向けることを意味するのです。どうすれば、ともすれば自分のことで精一杯になりがちなわたしたちの心が、神と人とに向かって行けるのでしょうか? そのために福音すなわちイエス様の言葉、行い、存在に出会って、あの4人の弟子たちのように立ち上がってついて行かなければならないのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*「今」わたしたちがすべきこと、祈るべきことは何でしょうか?