「お言葉どおり、この身に成りますように」 いよいよ待降節も最後の大切な時期に入りました。待降節第4主日にはイエス様の誕生の前触れとしてマリア様への天使のお告げの場面が朗読されます。ヨーロッパの宗教画において数々の画家たちが、繰り返しこの場面をモチーフにした作品を描いております。何故、それほどにこのテーマは画家たちの創作意欲をかき立てたのでしょうか? それは神様の壮大な救いの計画がたった1人の若く素朴な女性の「はい」という信仰からスタートするというコントラストが尽きざる興味をもたらしたからではないでしょうか? マリア様は新しいイブとたとえられます。人祖であるアダムとイブはエデンの園で幸せに暮らしていたのに、へびの姿をしたサタンにそそのかされ、「これを食べるとあなたたちは神様のようになる」という巧みな誘惑に負けてしまい、自分の力で「神」と同じ地位、力を手に入れようとして、かえって「死と苦しみ」を背負うことになりました。マリア様はその全く反対に「すべてを神様におまかせします」と答えたのです。マリア様はこのことを生涯を通して貫きました。ただお告げを受けた時だけでなく、あの十字架の前に立った時もそれは変りませんでした。たとえ、目の前の出来事がどんなに悲惨で、どこにも希望の見えない時にも、マリア様の心の中に宿った光は消えることがありませんでした。それは特別なことであると私たちは思ってしまいがちですが、「神様にはお出来にならないことは何もありません。その神様があなたとともにおられます」というわたしたちも知っており、信じているはずのことばなのです。それゆえにマリア様の信仰の素晴らしさが際立ってくるのです。 十字架にかけられてイエス様がなくなり、葬られ、その姿が見えなくなってしまった時、マリア様のところに1人、また1人とあの弟子たちが集って来ました。マリア様は彼らのふがいなさを叱るどころか、かえって弟子たちを励まし続けました。イエス様の姿が見えなかった3日間、彼らを支えたのはマリア様の信仰でした。こうしてマリア様は「教会の母」となったのです。わたしたちが信仰に基づいて「はい」と神様に委ねる時、そこに小さな救いが始まるのです。途中でそれをあきらめたり、絶望したり、忘れたり、うらんだり、ではなく「生涯を通して」その「はい」を貫こうとしている人をマリア様は天から応援して下さるのです。わたしたちも今日、もう1度「はい」という心で生きてゆくことを確かめたいと思います。 【祈り・わかちあいのヒント】 *わたしが一生涯を通して、信じ、生き、祈り続けていることは何でしょうか?