ルカ福音書には、イエス様らしい細やかな心づかいが表れているエピソードが記されています。今日の福音書もその一つです。小さなエピソードですが、とても大切なメッセージがあると思います。イエス様は弟子たちを連れてユダヤやガリラヤを巡り歩いておられます。当時、ラビと呼ばれる人が町や村を訪れると、その町や村の有力者たちはこぞってラビを招待し、もてなし、またラビのお話をその町、その村の人々にも聞かせようと家を開放していました。
さて、イエス様はマルタ・マリア・ラザロの住むベタニアという村にやってきました。ベタニアはエルサレムから5kmほどしか離れていない村ですから、エルサレムを訪れるたびにイエス様たちはマルタたちのいるこの村に立ち寄っていたのでしょう。いつものようにマルタが出迎えます。「さあ、私の家においで下さい」。マルタは家に着くなり、しもべたちに次々に命じます。「あなたは冷たい水を汲んできて、先生やお弟子さんたちに差し上げて下さい。手や顔を洗ってさっぱりしたら、涼しい木陰に案内して」「あなたはすぐにご馳走をたくさん用意して下さい。今夜は大勢の人がきますから」。「あなたはこの村中の人々に伝えて下さい。『今夜、私の家にナザレのイエス様がお泊りです。お話を聞きたい人は遠慮なくおいで下さい』と皆さんを招待するのですよ」とマルタは思いつくことをテキパキとこなします。
さて、夜になりました。村の人々も集まってきます。マルタは、ここにいるすべての人に最高のもてなしを、このひと時を十分にくつろいでもらおう、とあれこれ気配りします。ふと気がつくと妹のマリアがイエス様の足元にじっとすわってお話を聞いています。イエス様のお話が一段落した時を見計らって、「先生、妹に手伝うようにおっしゃっていただけませんか?」と話しかけました。イエス様はマルタを見つめて「マルタ、マルタ」と2回も名前を呼んでいます。「マルタ、あなたはいつものように親切だ。私や弟子たちだけでなく、ここにいるすべての人をもてなそうと心配りしてくれている。それはうれしいこと、ありがたいことだ。しかし考えてごらん。私がここに来たのは休みたいからではなく一人でも多くの人に福音を聞いてもらいたいと望んだからだ。マリアはだれよりも一生懸命、聞いてくれている。聞くことは受身で何もしていないように見えるかもしれないが、私のことを大切に思ってくれるからこそ、大切な人が大切なことを話していると思い、自分の気になることややりたいこともやめて、私のことばを聞くことにすべてを捧げてくれている」。いつの間にか私たちも、自分のやりたいことや自分の気がすむためのことを人に押し付けてしまいがちです。でも本当に大切なのは、私が考える「最高」ではなく、神様が考えておられる「最高」が何であるかなのでは?
【祈り・わかちあいのヒント】
*神様の考える「最高、最上のこと」と私の考える「最高、最上のこと」の違いは?