「神の子 イエス・キリストの福音のはじめ」 今年の典礼暦年はB年にあたり、マルコ福音書がたびたび福音朗読に用いられます。今日の箇所はマルコ福音書の冒頭の一節です。マルコ福音書は、イエスを神の子であると宣言することばから始まっていることが印象的です。そして、イエス・キリストの先駆者としての洗礼者ヨハネの登場とその使命について語ります。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」と。洗礼者ヨハネの姿は旧約の預言者の代表であるエリヤの姿を彷彿とさせます。またその説教も炎のごとく激しく、救い主であるイエスを迎えるための悔い改めの洗礼の活動は多くの人々の心に響きました。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けた」と記されています。 ヨルダン川とは、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、40年の試練の後、新しいリーダーであるヨシュア(イエシュア、すなわちイエス)に導かれて、神とともに住む約束の地に入る第一歩がヨルダン川でしたから、洗礼者ヨハネもそのことを意識させるためにヨルダン川において、イエス様を迎え入れるための活動を行っていたのです。 今、待降節という季節を歩んでいるわたしたちも「荒れ野」、「主の道」、「悔い改め」、「罪の告白」、「洗礼」をキーワードとして、この日々を歩んで行かなければなりません。曲がりくねった道はまっすぐに、でこぼこの道はたいらにされなければなりません。クリスマスを迎えるにあたって「わたしの心の曲がっているところ」や「でこぼこなところ」を見つめなおさなければなりません。この1年のわたしたちの「思い、ことば、行い」はどうだったでしょうか? もう1度、荒れ野に叫ぶ者の声に耳を傾けなければなりません。自分の心の中が自分の声でいっぱいになっていると他の人の声など聞こうとしません。自分の意見ややりたいこと、要求ばかりでいっぱいになりがちな心を、「祈り」、「みことばを聴く」ことによって整理しなければなりません。わたしたちのヨルダン川はどこにあるのでしょう? わたしたちのヨルダン川はわたしたちの受けた洗礼ではないでしょうか? 聖堂に入るたびにつける聖水はその記念なのです。 【祈り・わかちあいのヒント】 *わたしたちの心はどんなところがでこぼこでしょうか? *わたしたちの心はどんなところが曲がっているでしょうか?