「この最も小さい者の一人にしたことはわたしにしてくれたこと」 今日祝う王であるキリストの祭日は、1年の典礼暦を締めくくるものであり、来週からは新しい典礼暦年、すなわち主の降誕を準備する待降節が始まります。さて、年間の最後の主日である今日は「王であるキリスト」ということがテーマになります。「王」というイメージにはいろいろな面があると思いますが、聖書では「最後の審判」と結びついています。当時の王はその国における最高の裁判官でもありました。 マタイ25章のこのたとえ話は、山上の垂訓から始まるイエス様の教えの最後を締めくくるものでもあります。何回も繰り返し述べられていた「愛」のテーマでもあります。「自分がして欲しいと思うことをしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである」(マタイ7:12)とか、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛することと隣人を自分のように愛すること、律法全体と預言者の教えはこの二つの掟に基づいている」(マタイ22:37~40)と総括しているように、このたとえもイエス様の教えを集約するものなのです。 また、このたとえの中に何度も繰り返されている「小さな者」も注目に値すると思います。わたしたちに期待されているのは「大きなわざ」や「偉大な仕事」ではなく、日常的とも言えるほど「小さなこと」なのではないでしょうか? マザー・テレサの「わたしたちに大きなことは出来ません。わたしたちが出来るのは小さなことに大きな愛をこめておこなうことです」という言葉を思い出してみると、このたとえ話も「恐ろしいもの、厳しいこと」ではなく、わたしたちの身近なところで神様を喜ばせることが出来ること、人間の目には小さく見えることの一つでさえも神様はお忘れにならず報いて下さることと受け止められないでしょうか? イエス様の教えはわたしたちを脅かすものではなく、わたしたちを愛の行ないへと促し、誘い、導くものであるからです。 神様は公平なお方です。わたしたちが人に対してしたようにわたしたちにして下さるのです。「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」(ルカ6:38)のです。つまり、天の国に入るための鍵はすでにわたしたちの手にゆだねられているのです。天の国に入りたいならば、この人々をゆるし、愛し、与えるのです。そうすれば父なる神はわたしたちをゆるし、愛し、与えて下さるからです。 【祈り・わかちあいのヒント】 *わたしたちに今からでも出来る神様を喜ばせることは何でしょうか? *わたしたちの近くにいる小さな者とは誰でしょうか?