今日の福音朗読は、来週迎える受難の主日の言わば序曲のように感じます。ヨハネ福音書の1章から12章までは「しるしの書」と呼ばれ、イエス様の宣教生活の3年間が「7つのしるし=奇跡」を中心にまとめられており、今日の朗読箇所、「ラザロのよみがえり」はその7番目のしるしです。4つの福音書には3つのよみがえりの奇跡が記されています(ヤイロの娘=マタイ9:18~・マルコ5:21~、ナインのやもめの息子=ルカ7:11~、ラザロ=ヨハネ11:1~)。また使徒行録にはペトロがドルカスという女性をよみがえらせ(使徒行録9:36~)、パウロも窓から落ちた若者をよみがえらせる(使徒行録20:7~)というエピソードが記されています。
これらのよみがえりのエピソードとラザロのよみがえりのエピソードには「共通する要素」が見出せます。それは「肉体の死」は神様の力の前では「ねむり」に過ぎないという点です。ヨハネ11章11節において、主イエスは「わたしたちの友、ラザロが眠ってしまった。わたしは、彼を起こしにゆく」と述べています。すると弟子たちは病気が快方に向かい、安眠しているのだと思ってしまいます。イエス様はラザロの死について話されたのですが、弟子たちはただ眠りについて話されたのだと思ってしまいます。
「ラザロのよみがえり」のエピソードが他のよみがえりの奇跡と異なる点は、ラザロの死から4日たっていたことです。他の奇跡は「死の直後」であり、仮死状態であった可能性もあります。そして、これらの奇跡ではイエス様がそのあわれみのゆえに死の苦しみを取り除くというメッセージが中心ですが、ラザロのよみがえりのエピソードでは、「死を打ち破るイエス・キリストとは誰か?」また「そのイエス・キリストをあなたは信じますか?」というキリスト論と信仰者の姿勢が強く表われているのです。イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」とわたしたち一人ひとりに問いかけておられるのです。イエス様の「復活」は単なる「肉体のよみがえり」とは異なるものです。イエス様の復活とは、時間も空間も超えて永遠に生きておられる神の子としての姿を表わすものなのです。永遠に生きて、わたしたちに語りかけ、わたしたちに近づこうとされる復活されたイエス様とわたしたちが出会うためには、「石を取り除かなければ」ならないのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
わたしたちとイエス様の出会いを妨げている石はわたしたちの心の中にあるのでは?
イエス様の復活について、わたしが知っていることはどのようなこと?