2026年3月15日
四旬節第4主日 ヨハネ9:1~41

 ヨハネ福音書9章では、ほぼ1章をかけて「生まれつきの盲人のいやし」が語られています。イエス様と弟子たちは神殿の近くでこの生まれつきの盲人と出会いました。弟子たちは当時のユダヤ人の考え方に従って、「この人が生まれついて目が不自由なのは、この人の罪の結果か、それとも先祖の罪の結果か」とイエス様に問い掛けるのです。するとイエス様は、「この人は病気のためにそうなったのであり、病気と罪は関係がない」と言われ、この人の目をいやします。

 唾で土をこね、その人の目に塗り、「シロアムの池に行って、目を洗いなさい」と命じます。これはとても興味深い行ないであり、命令です。イエス様ならただ一言でいやすことも出来るのに、何故、土をこねたのでしょう。これは創世記に記された人間の創造のエピソードを思い起こさせます。

 さらにそれを目に塗り、それから神殿の近くからエルサレムの城壁のはずれにあるシロアムの池までゆくように命じるのです。神殿はエルサレムで最も高いシオンの丘にあります。そこから目の見えない人がシロアムの池にゆくには、人ごみで混雑した街中、しかも坂もあり、狭い道、建て込んだ家々の間を通って、たどり着くまで時間もかかったことだと思います。

 それでも彼は出かけてゆきました。見ず知らずの人が奇妙なことをした上にわずらわしいことを命じるのに、シロアムの池に向かいました。そして、生まれて初めてその目に光が宿ったのです。彼は自分の家に戻ってきました。両親や近所の人々は、彼の身に起こったことに戸惑います。喜びをともにするというより、当惑、さらには疑いを抱き、ファリサイ派の人々のところに連れてゆきます。ファリサイ派の人々は、イエス様のなさったこと、彼の身に起こったことを全く反対の方向で理解します。「安息日にしてはならないことではないか!」とイエス様のなさったことを非難します。イエス様は彼らのこのような行動、言動を「霊的な盲目」と指摘なさいます。

 人間の一つの傾向として、ありのままを受け入れようとせず、自分の都合にかなうことは良いこととし、自分の都合や気持ちに合わないことは拒否したり、非難したり、悪口を言ったりするのです。人をいやす人、傷つける人、私たちのまわりにもいます。そして、私も時にその両方になることがあります……。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私も、見たいと思うものしか見ようとしていないのでは?
*イエス様のなさったことにケチをつけるファリサイ人をどう思いますか?