先週の日曜日に祝った主の洗礼から年間という季節が始まります。それに続く年間第2主日にはヨハネ福音書の記事が朗読されます。洗礼者ヨハネが述べた「神の小羊」という表現は、今日もミサの中で私たちが用いているイエス様の称号です。「神の小羊」ほど、イエス様の使命を端的に表している表現はありません。「小羊」と言えば、イスラエルの人々にとっては「過越しの食事」を連想させるものでした。あのエジプトからの脱出の時、モーゼはイスラエルの人々に命じました。「傷のない一歳の小羊をほふりなさい。その血を各家の入口の鴨居(横木)と柱(縦木)に塗りなさい。その血を見て、主の使いはイスラエルの家と知るであろう。そして、主の下す災いは過ぎ越すであろう」。過越しの食事はイスラエルの人々にとって、神の救いのわざにあずかるしるしとなりました。彼らは年に1度の過越祭の食事にエルサレムであずかることにより、自分たちが神の民であることを確認しあったのです。
このような宗教的な背景がある中で、洗礼者ヨハネがイエス様を神の小羊と言った時、2人の弟子(ヨハネとアンドレア)は、「先生が『神の小羊』と言われたこの人にはきっと何かがある!」と思い、その後をついて行ったのです(ヨハネ1:35~42)。洗礼者ヨハネは「神の小羊」という表現をもって、イエス様が十字架(横木と縦木の組み合わされた形)の上で、自らの血を流し、自らをいけにえとして捧げ、それによって世の罪を贖い、世を救われるお方であることを最初から宣言しているのです。だから、この方こそ、「神の子」であると証しするのです。「神の小羊」が今日もミサの中で繰り返し使われるのには、それだけ大きな意味があるのです。
私たちはイエス様をどのようなお方であると表現していますか?
「私にとってイエス様とは、○○○○○である」という自分らしい信仰表現を持つことのできる人は幸いだと思います。イエス様ご自身もいろいろな表現でご自分のことを言い表しておられます。「私は天から下ったパンである」「私は世の光、道、真理、命である」「私はぶどうの木」「私は一粒の麦」などなど。これらの意味を深く受けとめ、味わい、私たちの心の中にいつもイエス様の姿があらわれているように生きてゆきたいと思います。
【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたはイエス様をどのようなお方であると表現できますか?
*あなたにとってイエス様を語る時のキーワードは何ですか?