「悲しむ人は幸いである。その人は慰められる」
いよいよ、イエス様の教えが語られます。マタイ福音書はイエス様の教えを五つの垂訓という形でまとめており、その第1の垂訓はマタイ5~7章の「山上の垂訓」と呼ばれる有名な箇所です。その場所が「山」であったことにより、イエス様の姿が、シナイ山で旧約の神の民がどのようにして神にふさわしい民になるべきかを告げたモーセと重なります。新約時代の神の民の生きるべき道が示されるのです。
今日の福音は、山上の垂訓の冒頭を飾る「真福八端」と言われる「八つの幸い」についてです。この八つの幸いは言わば、イエス様の教えの根本的な精神を表すモットーのようなものです。その第一声「心の貧しい人々は幸いである」は、日本語では少し奇妙に聞こえるかもしれません。と言うのも「心が貧しい人だなあ!」と言えば、他の人のことを顧みる余裕もない、自分のことばかり考えている人」というニュアンスです。そこで、「聖書と典礼」の注釈にもあるように「霊において貧しい人」という訳も可能なわけです。実に、このたった1行に対し200種類もの翻訳が可能なのです。
では、イエス様が言いたかった「心の貧しい人」とは、どんなことなのでしょうか? それは、「この世のどのようなものでも解決することの出来ない、人間の苦しみを解決できるのは、神様、あなたしかいないのですということを知っており、それゆえに神様にしか頼ることが出来ない人々」という意味なのです。
「悲しむ人は幸い」とイエス様はおっしゃいますが、何故でしょうか? よく考えると「自分のことで悲しむのではなく、他の人の悲しみを自分の悲しみとして受け入れることのできる心をもった人は幸い」なのです。「いつくしみ」ということばはラテン語では「ミゼリコルディア」ですが、ミゼール(悲惨なこと、悲しみ)とコルディア(心)という二つのことばが一緒になってミゼリコルディアすなわち「いつくしみ」という意味になるのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*なぜ「柔和な人は幸い」なのでしょうか?
*なぜ「義に飢え渇く人は幸い」なのでしょうか?
*神さまを見ることのできる「心の清さ」とはどのようなことでしょうか?
*神の子と呼ばれるために「平和を実現する」ために何をしていますか?