いよいよ、聖週間が始まります。枝の主日、受難の主日と呼ばれる今日は、イエス様のエルサレム入城を記念する行列と受難の朗読が行なわれます。C年にあたる今年はルカ福音書の23章が朗読されます。ルカ福音書は異邦人からキリスト教徒になった人々のために書かれた福音書ですので、マタイ・マルコ福音書とは少し異なった視点からイエス様の最期を描きます。マタイ・マルコは旧約聖書に精通している人々を考えていましたから、イエス様の死の徹底的なむごさ、イエス様を死に至らしめる人々の罪を描いていますが、ルカは十字架上の死をイエス様のかぎりないいつくしみという視点から描きます。
受難の朗読はピラトの官邸における裁きの場面から始まります。ピラトは3度もイエス様に罪がないことを宣言します。そして責任を逃れようとイエス様をヘロデのところに送りつけます。ヘロデはかつて洗礼者ヨハネを殺した人物であり、その洗礼者ヨハネがよみがえってナザレのイエスとなったといううわさを聞いており、イエス様を見てみたいと思っていました。しかし、自分の思い通りにならないと気に入らないおもちゃを投げ出す子どものようにピラトに送り返します。
ファリサイ人や律法学士、祭司長たち、長老たちに扇動された民衆はイエス様ではなく、バラバの釈放を要求します。つい先頃、「ダビデの子、ばんざい」と歓呼の声を上げてイエス様を大歓迎して迎えた群衆が、「十字架につけろ」と狂気に駆られて叫び声を上げています。対照的にイエス様は静かに沈黙しています。ただいつくしみのまなざしだけを人々に投げかけています。
エルサレムの婦人たちを慰めるイエス様の姿をルカだけが伝えています。「生木さえかくのごとくなれば、まして枯れ木はいかにぞや」という十字架の道行に残っていることばです。また、ルカだけが記す有名なことばが続きます。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分では何をしているのか知らないのです」と自分を十字架に釘付けにしようとする人々のために祈ります。このことばを聞いた一人の人がやがてイエス様に「あなたが御国においでになる時、私を思い出して下さい」と語りかけ、イエス様は「今日、あなたはわたしとともに楽園にいる」と約束されるのです。ルカはこうして最後の最後までイエス様が御父の愛の無限の大きさ、深さ、広さ、高さを証しされる姿を私たちに伝えているのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私は今、何をしているでしょうか? イエス様は何を私のために祈って下さっているでしょうか?