毎年、四旬節の第2主日にはイエス様のご変容の箇所が朗読されます。さらに8月6日にはご変容の祝日があり、同じくこの箇所が朗読されます。1年の間に2回も同じ箇所が朗読されるということは、この出来事がイエス様と私たちにとって重大な意味があるからなのです。
イエス様は3回にわたって、やがてエルサレムで十字架にかかって死ぬこと、しかし、それは終わりや失敗ではなく、「主のしもべの道」であり、十字架の死を通して天の門が開かれ、復活の栄光が現れることを弟子たちだけに話しました。しかし、弟子たちはそれを受け入れることが出来ず、「確かにいろいろな困難はあるかもしれないが、イエス様のことだから、大きな奇跡を起こして、大成功をおさめ、イスラエルの王となり、我々も重要なポストにつけるに違いない。厳しいことをおっしゃっているけれど、我々を戒めるために言っておられるのだろう」と現実から目をそむけ、自分たちに都合の良いように受け止め、考えていました。
この弟子たちの有り様こそ、私たちの信仰とよく似ているのではないでしょうか? キリスト教は「愛の宗教」と言われますが、イエス様の言う「愛」とは、甘い夢やここちよい気持ちを指して言っているのではありません。ザビエルたちが日本に来た頃、この国の人たちにとって「愛」は「恋愛」の意味でしか、理解されていませんでした。それゆえ、ザビエルたちはキリストの言う「愛」を説明するために「喜んで損をすること」「ご大切」というような表現を用いたということが記録に残っています。
このような弟子たちに気がついて欲しかったイエス様は、3人の弟子を連れて山に登ります。そして、彼らの信仰のために祈ります。祈っているうちにそのお姿が変わりました。モーセとエリヤを証人としてエルサレムで起こる出来事の意味が解き明かされます。ペトロたちは驚きと衝撃のために何をしたらよいのかわかりません。すると、雲の中から声が聞こえてきます。「これは私の愛する子、これに聞け」と。私たちはキリストに尋ねなければなりません。「主よ、私はどうしたらよいのでしょうか? 私の望みではなく、御父の望みを知り、それを行なうためにはどうすればよいのでしょうか?」と。祈りはその人を変えるのです。
考えるヒント:
あなたはキリストの言う「愛」をどのような言葉で説明できますか?
あなたはどのようなこと、誰のためならば「喜んで損をする」ことも引き受けられますか?