「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」
今日の福音はルカにおける「平地の説教」の冒頭です。マタイでは山上の説教と呼ばれ、3つの章にわたり106節も記述されているのに、ルカではわずかに30節のみです。しかし、その内容はナザレでの最初の説教「貧しい人に福音が語られる」ということからすでに始まっているのです。有名なマタイの山上の説教では「心の貧しい人は幸いである、天の国は彼ら(三人称)のものである」と記されていますが、ルカの平地の説教では「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と二人称で語られていることはルカの特徴となっています。
自分を頼みとして自己中心的に生きる人の不幸と神を中心に生きる人の幸いが明確にされているのが、ルカ福音書の記述によってよりきわだっています。それを強調するのが、第2と第3の幸いと不幸を語る際に使われている、「今」飢えている、「今」泣いている、「今」満腹している、「今」笑っているという「今」ということばです。現在の状態に安住してしまい、自分だけが満たされていることで周りの人々、神様の思いに気がつかない人はやがて不幸な状況へと転落してゆくのです。「今」の状態の厳しさ、困窮、困難にあっても神様への信頼と自分がなすべきこと、進むべき道について迷いのない人は幸いな人なのです。
周りと比べて自分を不幸と思いやすいのが人間です。神様に、すぐに結果となって現れることばかり祈り求めてしまいやすいのが人間です。すでに生きるために必要なものが多く与えられているのに、わずかに不足しているものにとらわれて嘆いてしまうのが人間です。「辛いという字はもう少しで幸せになれそうな字である」と星野富弘さんが言っていましたが、神様の望みは人間を不幸に陥れることではなくその反対です。神様が決して私たちを見捨てないという宣言が、この平地の説教の根幹にあります。そうでなければイエス様を遣わすはずがありません。イエス様は、地上の有様を視察するためにだけ来られたのではなく、この地上に神の国(神様の愛といのちによって統治される状態)を打ち立てるために来られたのです。ただイエス様のなさり方は権力や富、法や掟による強制ではなく、「心の一新、回心、刷新」による変革であり、神の子としての成長を粘り強く呼びかけるというものです。それは悠長で、冗漫で、悠遠で、すぐには目に見えるものにはならないと言われるやり方です。なぜ、神の子が十字架に上るのか、そこにイエス様の愛の神秘があるのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*「今」あなたは「幸せ」それとも「不幸」ですか? なぜ不幸だと思いますか?