「聖霊来て下さい」ということばで始まる聖霊の続唱の中に、様々な聖霊の働きが語られ、讃えられています。今日のミサにおける3つの聖書朗読の箇所も、聖霊の果たす役割を示しています。第1朗読の使徒行録では、使徒たちに降られた聖霊は彼らをみことばの宣教者とし、全世界の人々からなるキリストの教会を建設させるのです。第2朗読のⅠコリント書では、聖霊は一人ひとりの信仰者に信仰の賜物を与えてイエス・キリストを主と認めさせ、種々の奉仕の賜物を配分し、キリストの神秘体を形づくります。そして福音朗読では、復活したイエス様が新しい人間の創造主として、「神の子となる霊」を使徒たちに注がれます。使徒たちが新しい人間・神の子らとして生きるものとなったしるしとして、「罪のゆるし」を告げる権限が与えられます。 人間は、自分以外の他の人を罰することが大好きですが、ゆるすことは嫌いという傾向をもっているのです。ヨハネ福音書8章に記される「姦通の女」のエピソードは如実にその現実を語っていますし、ゼベダイの子らも、イエス様を受け入れようとしないサマリアの村に対して「天から火を降らせて、彼らを滅ぼしてはいかがでしょうか?」とイエス様に提案し、叱られています。旧約聖書の初めから新約聖書の終わりまで、どの頁を開いても「罪」についてふれているとさえ言っても過言ではないかもしれません。「罪によって人々は生ける神より離れ」(ヘブライ3:12)、「神の声を聞くことを拒否し」(民数記14:22)、「神の子を十字架にかけてさらしものとし」(ヘブライ6:6)、「神の子を踏みつけ、恵みの霊を侮る」(ヘブライ10:29)のです。 自分の罪はゆるして下さいと祈るのに、自分に対して悪いことをした人々のことをゆるすことは出来ないのが、わたしたち人間の現実なのです。現在も世界に紛争が絶えないのはこの「憎しみの連鎖」が断ち切れないためなのです。しかし、イエス様の十字架はこの人類の罪の丘の上にそびえ立ち、天の父のいつくしみへの道を開かれたのです。罪に打ち勝つためには、神の息吹を受け、罪の根源となる悪しき心を「神の子の心=愛の掟を生きる=イエスの心に燃える愛の心=聖霊」によって変えて戴かなければならないのです。人に対する文句・不平・批判は「悪しき心」・「不信仰」のしるしです。それに対して、感謝・寛容・励ましは「新しき心」・「信仰」のしるしとなります。私たちキリスト者はあの「主の祈り」を唱えることにより、わたしたち一人ひとりが聖霊を受けることにより「罪のゆるし」の泉となるのです。 【祈り・わかちあいのヒント】 *この1週間の中で、誰かを幸せにすることばを語ったでしょうか? それとも誰かを不幸にすることばを口にしてしまった…?