「先生、わたしたちはどうすればよいのでしょうか?」
待降節第2~3主日は、洗礼者ヨハネの登場とその宣教について語られます。洗礼者ヨハネは、当時のユダヤの人々に圧倒的な人気がありました。その姿はエリヤ(旧約の預言者の代表者)を思わせるような風貌であり、そのメッセージは律法によってがんじがらめに縛られた心に「新しさと力強さ」感じさせたからです。
さて、今日の福音では一般民衆、徴税人、兵士という当時の人々を代表する3種類の人々が洗礼者ヨハネに近づいて、各々、「私たちはどうすればよいのですか?」と尋ねています。洗礼者ヨハネのもとには、これまでの考え方からすれば、救われるに値しないと思われていた人々が殺到しています。
洗礼者ヨハネは、冷ややかな目で自分を疑って見ている律法学士やサドカイ派の人々に対しては、「まむしのすえよ」と激しいことばで回心を呼びかけています。ヘロデ王の不行跡を恐れずに咎めます(マタイ3:7、ルカ3:19)。しかし、洗礼者ヨハネは、律法学士やファリサイ人から見れば救いに値しないと思われるような人々の問いかけに対しては、きわめて現実的、具体的、実践的な答えを示しています。すなわち、彼の答えはきわめて常識的なことであり、いわば次の一歩を示すものでした。本当の真理とは、難しい理論、一部の人しか実行できないような教えではありません。マザーテレサのことばに見られるように、真理とは理論ではなく、人の心を感動させるもの、これなら私もできると立ち上がらせるものであるのです。
しかし、ひとつだけ真理に従って歩もうとする人々に求められる決意があります。それは、過去の自分のあり方に訣別することであり、洗礼者ヨハネが求めている神の国を迎えるために必要な回心なのです。これまでの自分の考え方ややり方に拘泥している人には、回心がありません。一部分の修正では「改心」であっても「回心」(全面的な神への信頼に基づく生き方への転換)ではありえないのです。まだどこかに条件を付けている。まだどこかで自分のやり方に拘っている。新しいこの1年に古い自分を引きずってゆきますか、それとも洗礼者ヨハネが呼びかけているように、全くの新しさの中に身を投じてゆきますか?
【祈り・わかちあいのヒント】
*今の自分の生き方から一歩踏み出すために、何が必要でしょうか?
また、どこに向かって、その一歩を踏み出すべきでしょうか?
何をすることがその一歩でしょうか?