「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整えよ』」
待降節第2主日の福音朗読には、ティベリウス皇帝、ポンティオ・ピラト総督、ヘロデ王、アビネレの領主リサニアの名前が登場します。異邦人キリスト者に時代を明示するために、ルカはこのような手法を用いました。そしてなによりも大切なのは、キリストの到来を告げる洗礼者ヨハネが登場することです。今週と来週にわたって洗礼者ヨハネの宣教に関わるメッセージが朗読されるのは、待降節とはすなわちキリストを迎える準備として何をすべきかについて考える時だからなのです。
待降節第2主日
ルカ3:1~6 洗礼者ヨハネの宣教 Ⅰ
「主の道を整えよ」
待降節第3主日
ルカ3:10~18 洗礼者ヨハネの宣教 Ⅱ
「それでは私たちは何をしたらよいのでしょうか?」
「主の道を整えよ」
旧約聖書では「道」ということばは706回の使用例があります。宗教的な意味では「神のなさり方」、「神によって求められている人間の行為」、人間のおかれている「状態」などを意味し、特に「歩く、行く」という動詞を伴うと、「道」は人間が生涯をかけてたどる道程、人間の行くべき方向、歩く態度を示しているのです。神は、この道の導き手(詩篇23)、生命の道を示される(詩篇16:11)、いつくしみの道(詩篇25:10)、平らなものとされ、目的の地まで導かれるのです(詩篇91:11~12)。
私たちの生き方は「まっすぐでしょうか」? いろいろなものに気を取られ、神様の御心にかなうことよりも自分にとって楽しいことにフラフラと足を向けてしまっていることはないでしょうか? 私たちの心は「平らでしょうか」? 石ころだらけ、あるいは泥沼のようなものに足をとられて身動きの出来ない状態でしょうか? あるいは草が背丈よりも高く生い茂って見通しが利かずに迷子のようになってはいないでしょうか? 今、「自分はこのために、このような生き方をしている!」とはっきり言える人は幸いです。何となくは生きているけれど、それほど不幸でもないけれど、でも満ち足りてもいない……というような人が多いのではないでしょうか? 福音とは、そのような無気力から立ち上がらせる力をもっているのです。キリストの語る言葉、教え、その姿、その声に気がつけば、私たちも変わるのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちの生き方は「まっすぐ」でしょうか? どんなことにつまずいたり、道を迷ったりしているでしょうか?