先週はヨハネ10章から「羊のために命を捧げるよき牧者であるイエス様」のことばが語られました。そして今週も、「愛するもののために命を捧げるほど大きな愛はない」と語られたイエス様が、私たちのために「新しい掟」「唯一の掟」「愛の掟」を私たちに与えて下さいます。「掟」と言われるととても重い、そして苦しいものという感じがします。旧約聖書のモーゼ五書には613の掟が記されていると言われています。そして、まじめなユダヤの人々はそれに様々な解釈を加え、タルムードとか、ミシュナと呼ばれる細かい規定をどんどん作り、次第にその重苦しさにがんじがらめになっていってしまったのがイエス様の時代でした。イエス様の教えとファリサイ人たちの教えの違いは何だったのでしょう?
「これをしてはならない、このようなことは律法に反する」――要するにこれはダメ、あれもダメと行いを禁じてしまう条項が多すぎたのです。イエス様の教えはその反対、「ゆるしなさい、与えなさい、愛しなさい」と行いを促す呼びかけでした。これは興味深いことです。私たち日本人は「人の迷惑になるようなことはしてはいけませんよ」と言われながら育ってきました。しかし、果たしてそれでよい人間に成長したでしょうか? 東洋の偉大な思想家である孔子は言われました。「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」と。そしてイエス様は言われました「人からして欲しいと思うことを人にしてあげなさい」と。その表現は対照的です。私たちは、生まれた時から誰かに支えられて生きてこられました。そのことを忘れず、自分も誰かを支える人間になるように行うことをイエス様は呼びかけておられるのです。
愛の掟とは決して「自分がやりたいようにしてあげればよい」のではありません。その人を見つめ、その人が本当に必要なことを、今、ここで行うことなのです。愛は生きているものですから、固定・定型ではありません。いろいろなことば、いろいろな行い、いろいろな生き方となって表れるものなのです。私たちの愛が本当の愛であるためには、生涯をかけて「イエス様の愛し方、私があなたがたを愛したように」ということを学び続けてゆかなければなりません。そうでないと単なる人間的な愛に留まり、時には自己満足的な自己愛に留まってしまう危険さえあるのです。「キリストのように考え、キリストのように行い、キリストのように愛すること」これが唯一の正しい愛の学び方なのです。一言で言えば「イエス様ならばどう考え、どうなさるだろうか?」といつも考え続け、祈りながら、探しながら行うことなのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたがただ「一つの掟」として選ぶなら、どのようなことを掟としますか?