最後の晩餐・十字架・復活そして昇天・聖霊降臨は、イエス様の救いの出来事として深いつながりがあります。しかし、各福音書においてそれぞれ強調されるもの、またその表現には違いがあります。 昇天という出来事はマルコやルカ的な表現であり、他の福音書にはイエス様が天に昇られたという直接的な表現はありません。昇天というとどうしてもイエス様が私たちのいる地上から離れた場所、遠いところに行かれてしまい、私たちとイエス様が遠く離れてしまっているというイメージでとらえてしまうのが、現代の私たちの実感であろうと思います。 ところが、マルコやルカが昇天という表現を使ったのには、その反対の理由があったのです。 ヒント① マタイは昇天について述べず、むしろイエス様は「世の終わりまであなたがたとともにいる」ことを強調しています。 ヒント② 当時の人々、特にイスラエルの人々にとって「天」は、①神様のおられる世界(つまり、上の方にある)、②私たちが地上のどこにいても、必ず、私たちの上にあるもの、すなわち、いつも私たちとともにあるもの、という意味があるのです。従って、「天におられる神様」にはいつも私たちとともにいて下さる神様という意味があるのです。これは、ヘブライ語の「ハッシャマイーム」(天)ということばに、現代の日本語にはないニュアンスが含まれているからです。 それゆえ、マタイ28:16~20(今日の福音)が語っていることとルカ的な昇天の出来事は、矛盾するものではないのです。マタイの記事では、弟子たちが全世界に派遣されてゆきますが、自分の力で宣教をするのではなく、目には見えないけれどすでにその人々の中に隠れて働きかけているイエス様と協力しながら、イエス様の弟子たちとなるように働きかけてゆくことが宣教であると知らされているのです。「師と弟子」。これがマタイの宣教の特色です。キリスト者とは、生涯をかけてイエス様に学んでゆく心をもった人のことを示すことばなのです。 【祈り・わかちあいのヒント】 *どんな時、イエス様がともにおられることを感じていますか? *イエス様とどんなことをよく話しますか?