「あなたがたは、わたしの飲む杯を飲むことが出来るか?」
今日の福音は、イエスさまの3回目の受難予告のすぐ後に続くエピソードです。ゼベダイの子らの見当違いな願いをきっかけに、教会を成立させる本質が「仕えること」であるとイエスさまは教えられます。
マタイ福音書では、ゼベダイの子らの母が息子たちのために願いを発していますが、マルコ福音書では直接、2人が願い事を持ち出しています。最初の受難予告ではペトロの信仰が称えられ、また首位性が約束されていますが、3回目の受難の予告を聞いたにもかかわらず、今度は、ペトロとならび称されるあの2人の兄弟が、あいかわらずイエスさまがメシアであることを地上における王のようになることと受け止めており、右大臣・左大臣のポストを約束して下さいと願っております。しかもその願い方はかなり露骨で、直接的です。
「わたしたちがお願いすることをかなえて下さい」とは、先週の金持ちの青年の態度と比較してもかなり、自己中心的な響きがあります。この2人はかつてペトロとともにイエスさまの変容の栄光を目撃しているだけに(しかも、この変容のことはイエスさまから話してはならないと口止めされているだけに)、受難についても、モーゼやエリヤを従えるこの御方に絶対に敗北はないと確信していたのかもしれません。この願いに対してイエスさまは「栄光」よりも「栄光に至る道」つまり「苦しみ」について語ります。それが「杯と洗礼」という表現で表わされています。旧約聖書では「杯」はしばしば「苦しみ」を意味します(詩篇75:9、イザヤ51:17~22、エレミヤ25:15、エゼキエル23:31~34)。洗礼も「水の中に沈む」という意味でしばしば非常に大きな苦難の体験を表わしています(詩篇42:8、69:2,15、イザヤ43:2、ルカ12:50も参照)。
イエスさまは低くされることを喜べと教えられます。仕えることに喜びがあると教えられます。このことがわからないとキリストの教えが理解できないと思います。そのことを実践できた人がわたしたちの時代にもいます。それがマザーテレサです。彼女ほど単純に、澄み切った心でこのことを喜んで受け入れた人はいないかもしれません。ゼベダイの子らの願いは自己実現を求めていますが、イエスさまは御父の望みを実現することを望んでいるのです。キリストに従う、キリストを信じるのは自分の願いをかなえてもらうためではありません。そのことがわかってもあなたはキリスト者でありつづけますか?
【祈り・わかちあいのヒント】
*つらい時でも苦しい時でも信じていますか? それとも……