「あなたこそ、メシアです」
今日の福音朗読では、マルコ福音書の前半の頂点、あるいはマルコ福音書におけるイエス様の宣教活動の折り返し地点となるペトロの信仰告白が語られています。イエス様はあのガリラヤ湖の岸辺で福音宣教を開始され、多くのしるしを行い、弟子たちはそのすべての出来事を見聞きしてきました。そして、今、イエス様から問われています。「あなたがたはわたしを誰だと思うのか」と。
ペトロは弟子たちを代表して答えます。「あなたはメシアです」と。弟子たちも初めは、イエス様を優れた先生(ラビ)と思い、ついて行きました。やがて、この方の教えること、なさることを見ていて、「この方は預言者ではないか」と考えるようになりました。しかし、預言者以上にメシアすなわち約束された救い主、すなわち神の子であると思い始めてはいても、それを口にすることはなかなかできませんでした。ペトロは勇気をもってそれを宣言したのです。そしてそれはイエス様をも喜ばせるものでした。ところが、ようやくイエス様からの合格点を戴けたと思った次の瞬間、ペトロは信仰の新しい段階に向かって歩むべきことを知ることになるのです。そのメシアが「十字架にかかって死ななければならない」ということを、時間をかけて受けとめなければならないのです。(イエス・キリストの第1の受難予告)
マルコ福音書はこのペトロの信仰宣言の出来事を、マタイ福音書やルカ福音書にはない厳しさをもって語ります。すなわち、マルコ福音書にはペトロの信仰を称賛するイエス様のことばや姿はなく、直後にこのペトロを「サタン」と厳しく叱りつけてさえいます。ペトロには悪意はありません、いやむしろ本気でイエス様のことを心配し、まさか、そんなことがあってはならないと思ったから出たことばなのです。しかし、それは「神のことを思わず、人間のことを思っていた」のです。「おお、神の富と知恵と知識の深さよ。神の定めは悟りがたく、その道は窮めがたい」というローマ書(11:33)の一節が思い浮かびます。イエス様のメシアとしての道は、イスラエルの人々が期待しているような政治的な解放者、勝利者、繁栄をもたらす王の姿ではなく、「苦しむしもべ」としてのメシアの道でした。多くの人の救いのために、人々に代わってその罪とがを引き受けるという、人間的な思いからすれば決して理解できない道でした。だからこそ、ペトロもわたしたちも十字架を背負って、日々、イエス様に従って行かなければこのことはわからないのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちはイエス様をどのようなお方であると思っていますか?