「人間の心から、悪い思いが出て来る」
5週続いたヨハネ6章からの福音朗読が、今日の主日から再びマルコ福音書に戻ります。この段落は第24主日のペトロの信仰宣言でクライマックスに達します。さて、今日の福音のテーマは「汚れ」です。豊かな食材に恵まれているわたしたちには理解しにくいことですが、いろいろな民族や宗教においては「食べ物に関するタブー」が数多くありました。今でもイスラムの人たちやユダヤ教の人たちは豚肉を食しませんし、ヒンドゥー教の人たちは牛肉を口にしません。それらは「汚れている」という理由からであったり、あるいは「神聖なもの」であるという理由からであったりします。イエス様は人を汚すものは、外から人間の体へ入るものではなく、むしろ人の心から外に向かって出てゆくものであると宣言されます。これはとても重要で、かつ画期的なことなのです。
初代教会においても使徒行録10章のペトロのエピソード(10:1~47異邦人コルネリウスの回心)で有名なように、ユダヤ民族の中から生まれた最初のキリスト教徒である人々にとっては律法によって禁じられていた食べ物はタブーでした。ペトロは3度も同じ夢を見ます。そしてその夢の後ですぐに異邦人コルネリウスに出会い、彼がイエス様の教えを求めていることに気づくのです。神は異邦人にも聖霊の賜物を注がれているのです。
イエス様はファリサイ人たちが人間の作り出した慣習にすぎないことにこだわる愚かさを指弾しました。彼らが「これでなければ認めない」と思っていたことは単なるこだわりに過ぎなかったからです。律法も聖書のことばも、本来の目的ではなく表し方に過ぎないものにこだわるのは愚かなことなのです。ファリサイ人たちは「手の洗い方」にこだわりました。清めのための特別な水差しに入れた水でなければダメ、まず肘まで着物をめくり、手を垂直に立てて、指先から肘まで水を流さなければダメ、よくこすり洗いをして、最後に肘から指先に水を流さなければダメ、というように、「このやり方」そのものを絶対視してしまいました。自分たちのやり方と同じでない人々を排除するということこそ、イエス様がファリサイ人たちの偽りとして厳しく批判しています。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と。わたしたちの中にも「これでなければ、このやり方でなければ」と思っている「こだわり」があるはずです。しかし、そのこだわりはイエス様から見れば本当に価値のあるものでしょうか? もう一度考えてみなければなりません。
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちはどんなことに「こだわり」を持っているでしょうか?