「主よ、わたしたちはだれのところにゆきましょうか」
5週間にわたって朗読されたヨハネ福音書6章の最後の部分です。これまでは、イエス様が天から来られたお方であること、わたしたちを生かすためにパンの姿となり、ご自分の命を捧げ、その死を新しい命の源となさることをカファルナウムの人々に語りましたが、彼らはそれを受け入れられず、かえってつぶやきや不信仰な姿が描かれていました。しかし、今日のイエス様のことばは、なんと弟子たちに向けられているのです。弟子たちの多くのものはイエス様のことばを聞いて、「実にひどい話だ、だれがこんな話を聞いていられようか」とつぶやき、事実、多くの弟子たちがイエス様のもとから去り、もはや共に歩まなくなったと記されています。イエス様のガリラヤ宣教の危機と言われる出来事です。
イエス様は12人にも問いかけられました。「あなたがたも離れてゆきたいか?」と。ペトロはイエス様を正面から見つめながら、自分にカツを入れる気持ちで言ったことと思います。「主よ、あなたをおいてだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命のことばをもっておられます」と。イエス様は嬉しかったことでしょう。ペトロも懸命になって答えたことでしょう。イエス様の福音はすべての人のためにあるのに、すべての人が受け入れるわけではないのです。「イエスは最初から、信じない者がだれであるか、また、ご自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである」という今日の福音の一節にはとても興味深いものがあります。事実、最後の晩餐の食卓を囲んだ一人はイエス様を裏切りました。今、この聖堂に集まっているわたしたち一人ひとりも、今日は「あなたをおいてだれのところに行きましょう」と答えたペトロなのに、あの時にはイエス様を知らないと言ってしまうのと同じ弱さをもっているのです。
大群衆に歓呼の声で迎えられ、大いなるしるしを行い、人々を感動させるイエス様の姿についてゆくことは簡単です。イエス様のもとから人々が離れ去ってしまう時でもイエス様のもとにとどまることは、強い信念がなければできないことです。イエス様が十字架の上におられる時、その下に近づくことは本物の信仰がなければできないことです。教会に活気のある時に近づくことは簡単です。教会が困難に遭遇し、人々が離れてゆく時にもとどまることは、真のイエス様との対話、祈り、学びなしには難しいことです。ですから、今日も一人ひとりがそれぞれの生活の場でイエス様と過ごすひと時をつくるために、聖書を開いてみことばに耳を傾けるのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちはどんな時、イエス様から離れてしまいがちでしょうか?
*聖体拝領の時に「あなたをおいて誰のところに行きましょう」と、自分の心から唱えていますか?