「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」
今日もヨハネ福音書6章の朗読が続きます。キリスト教徒たちがローマ帝国時代に迫害を受けた理由にはいろいろありますが、キリスト教に対する悪口の一つとして、「赤ん坊を殺してその肉を食べている」というようなものがありました。カファルナウムの人々がイエス様のことばを聞いた時、同じような誤解が生じたのかもしれません。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めたのです。このことばの中にもはや「イエス」という名はなく、「この人」と軽蔑の意味を込めているのです。
イエス様の「肉、血」についての発言を聞けば、現代人であるわたしたちも少し驚くかもしれません。わたしがこのイエス様のことばを聞いて思い出すのは創世記2:23に記されているアダムのことばです。アダムにふさわしい相手をお造りになろうと考えた神様がアダムのあばら骨の一部をとって、お造りになった最初の女性の名はをエヴァ(命)でした。目覚めたアダムがをエヴァを見て言ったことば(これは人間が語った最初のことばとして聖書に記されることになりました)が「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」です。これも現代人にとってはわかりにくいことばかもしれませんが、骨というものは人間の体を形作る根幹になっています。骨がなければしっかりと立つことが出来ません。さらに肉がなければ人間の形になりません。つまり、アダムはをエヴァを見て、「これこそ、わたしの人生の中心となる存在、またわたしの人生を形作る存在、わたしが人間として生きるために絶対に必要な存在です」ということを言ったのです。
イエス様は、ご自分の肉を食べ、ご自分の血を飲む者は永遠の命を得ると語られました。それは、キリストを信じるということは、わたしたちが自分の人生をキリストによって形作ることであるという意味です。すなわち、頭のなかの理解で十分なのではなく、日々の生き方、ことば、行いの中に見えるものとすべきであり、さらにはイエス様との血の通った関わり方、学び方、祈り方を自分のものとすることが必要なのです。キリスト者であるわたしたちは、イエス様の死は世のために命の源となったと信じています。「食べる・飲む」ということばも、最後の晩餐の時に行われたイエス様の愛の祭儀を示すことばであることを知っています。聖体の秘跡としてイエス様がパンの姿で今日も来て下さることを信じるわたしたちには、今日のイエス様のことばも受け入れられるのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様と血の通った(つまり頭だけでない)関わりをもっていますか?