「つぶやき合うのはやめなさい」
ヨハネ福音書6章の主要な部分が5週にわたって朗読されています。今日はその3番目の部分です。今日のテーマは「民のつぶやき」です。ぶつぶつと文句を言う、あるいは正面から疑問や意見を表明するのではなく、裏に回って不平不満を並べるということは、わたしたち人間の世界にはよくある出来事です。
旧約聖書にも、特に出エジプト記の荒れ野の旅の間、イスラエルの先祖たちは「砂漠で水がない」、「マンナのような歯ごたえのない食べ物に飽きてしまった」、「肉が食べたい」など様々なつぶやき、不平を漏らしています。神様はその度にモーセに命じて、彼らの飢えや渇きを満たしています。しかし、イスラエルの先祖たちが、約束の地に住むカナン人たちが強大なことをおそれ、「エジプトに引き返した方がましだ」とエジプトを脱出してきたことの根本的な目的を忘れ、神様がなさろうとしておられる救いの計画とは反対の方向に向かおうとした時は、神様は彼らを厳しく罰することを厭いませんでした。(参考箇所:民数記13:1~14:38)
さて、イエス様の時代にもカファルナウムの人々はつぶやき始めました。「これはヨセフの息子のイエスではないか、どうして今、天から降って来たというのか」と。彼らには「地上のこと、地上の世界」がすべてであったので「天のこと、天から来られた」イエス様のことが理解できなかったのです。この世界を誰しもが見ているのに、この世界を創られ、わたしたちを生かして下さっている神様のみ心に対してはなかなか理解しようとしないのです。カファルナウムの人々の不信仰の理由は2つありました。その第一は「自分たちの知識がすべてである」という驕りから学びの姿勢を失っていたこと、第二は「自分の都合、思い通りに神様がしてくれない」からということなのです。荒れ野で先祖たちがつぶやいた理由も、カファルナウムの人々がイエス様を受け入れようとしなかった理由も同じです。同じ理由で21世紀に生きているわたしたちがイエス様を、父なる神を受け入れようとしないのでしたら、カファルナウムの人々の不信仰と同じ結果に陥るのです。イエス様は「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と語り、ご自分の真の姿を示されます。イエス様という道を歩んで父なる神のもとにたどりつく者だけが永遠の命に生かされるのです。その意味でイエス様はこの地上の旅路を歩むための糧なのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちが知っているイエス様の姿、その教え、それが本当にイエス様の姿、教えのすべてであると言えるでしょうか?