2024年7月21日
年間第16主日 マルコ6:30~34

 先週の福音朗読において、イエス様は弟子たちを二人ずつ組にして、宣教のため遣わされました。今週はその続きです。弟子たちは使命を果たしてイエス様のところに戻って、自分たちが行なったことや教えたことを残らず報告しました。この弟子たちの行ないは大切な教訓を含んでいます。

 ①第一の宣教者はイエス様であること。ルカ福音書10:17~20には「あなたの名前によって命ずると悪霊さえ従います」と報告しているように、弟子たちの行なったこと、教えたことは、イエス様とつながっているからこそ、可能なことだったのです。

 ②宣教には「分かち合い」が必要なこと。弟子たちは違う村や町へと出かけてゆきました。それぞれの弟子はイエス様に報告するとともに、自分たちがどのように行なったか、互いの経験を語り合いました。務めは種々に分かたれていても、それぞれが不可欠な役割であり、みなが力をあわせてこそ、宣教が成り立つのです。逆に言えば、宣教がうまく行かないときは、皆の心が一つになっていないときなのです。

 ③宣教活動を支えるためには祈りが必要です。イエス様は帰ってきた弟子たちに「人里はなれたところに行って、しばらく休むがよい」と呼びかけられています。「Ora et Labora」(祈り かつ 働け)はキリスト教生活のモットーとなっていますが、イエス様ご自身がこれをもっとも行なっておられました。

 こうして、弟子たちはイエス様とともに荒れ野(人里はなれたところ)に向かいます。しかし、そこでもまたイエス様と弟子たちは働くことになるのです。「ところが、多くの人々は彼らが出かけてゆくのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた」と。イエス様と弟子たちが舟から上がるとイエス様はまたもや彼らに話し始められます。

 弟子たちはそのことについて、群衆やイエス様に不平や不満をもらしてはいません。彼らの体は疲れていたかもしれませんが、心は疲れていません。私たちの信仰生活にも不調なときがあるかもしれません。それは「心が疲れてしまっているとき」なのではないでしょうか? イエス様が見えないとき、感じられないときこそ、心が疲れてしまっているときなのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたはキリスト教を知らない人とキリストの教えについて話したことがありますか? そのとき、その人はどのように受けとめましたか?