「いったい、このお方はどなたなのだろう」 今日の福音朗読では自然に関する奇跡のエピソードが語られています。ある人々はイエス様の奇跡のエピソードについて、病気や死からのいやし、悪霊からの解放など人間の苦しみを救う奇跡なら救い主としての奇跡にふさわしいが、嵐を静めるなど、自然現象に対する奇跡は理解することがますます難しいと思っているようです。旧約聖書には、神のみが嵐を起こし、海に境を設けることが出来ると記されています。苦難を心身に受けた義人ヨブが、神の意思を測りかねて問うた時、神は嵐の中から答えられました。「わたしが大地を据えた時、おまえはどこにいたのか」(ヨブ記38:4)と。創造主である神のみが自然を支配できるということを意味しています。 イエス様は「向こう岸へわたろう」と言い出されます。何のためか、何故そうするのかについて何も語っていません。これは、出エジプトにおいて紅海を渡ってあるくこと(この渡る=オブリームということばから「ヘブライ人」という名前が始まったのです)を命じられた主のことばを思い出させます。海は砂漠の民にとっては恐ろしいものでした(黙示録21:2)。しかし、神は海さえも支配するものであることを示されたように、イエス様はこの嵐の湖でご自分が主なる神と同じ権能・権威をもつお方であることを示されるのです。舟は教会のシンボルです。その帆柱は十字架、舟を動かす風は聖霊、そこにいるのはイエス様と弟子たち、まわりの水は嵐のように狂乱怒涛、しかしイエス様がともにいるのです。外界のさわがしさと対照的なイエス様の姿を見て、弟子たちは驚き、また不安になります。あわててイエス様をゆりおこす弟子たちの困惑に対して、イエス様は威厳をもって命じられます。嵐が静まったのを見て、弟子たちは新たな恐怖とおののきに襲われます。「この方はいったいどなたなのだろう? 風や湖さえも従うとは……」 この舟の中の弟子たちの姿は私たちの姿によく似ています。私たちの信仰も物事が順調な時はとても意気盛んです。陸地で群衆の前にイエス様といる時のように。しかし安全な陸地を離れて不安定な湖に乗り出した弟子たちは、嵐によって沈みそうになってしまいます。プロの漁師であり舟の扱いには慣れている彼らでさえ、もはや手の施しようがありません。私たちもそれぞれの生活の中で不安の嵐や闇に閉ざされる時に、この弟子たちのように不安におびえ、叫び出してしまいます。すぐそばにイエス様がおられることを忘れて……。「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか?」弟子たちの叫びはなんとも素朴で、直截的な信頼と不安が混在しています。イエス様もさぞ苦笑されながら言われたことでしょう。「なぜ恐れるのか」と。 【祈り・わかちあいのヒント】 *わたしたちを今取り巻く荒波はどのようなことでしょうか?