「これはわたしの体である。これはわたしの血である」 三位一体の主日に続いて、神様の救いの計画全体をシンボリックに表す聖体の主日が祝われます。三位一体が理論的に思えてしまうのに比べて、聖体は私たちにとって目に見える、わかりやすい、親しみやすい教えだと思います。 今度の日曜日の福音の箇所は、マルコから最後の晩餐の記述が朗読されます。最後の晩餐はたくさんの画家、芸術家によってテーマとされております。すでにカタコンベの中にその痕跡があります。またモザイクによるもの、フレスコ画、そしてたくさんのキャンバス画に。初期のものはキリスト以外の人物は皆同じような表情で単純なものでした。そして、そのテーマは最後の晩餐=聖体の制定が中心メッセージでした。後世のものにはユダの裏切り、各弟子たちの驚きや不安、それらが生き生きと描写されております。 イエス様がこの晩餐を大変重要に考えられていること、入念に計画しておられることがマルコの記述からわかります。この晩餐を行なった家は実はマルコの家であったという説もあるのです。「水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。すると用意の整った二階の広間を見せてくれる」とは、イエス様がこの晩餐を以前から計画しておられたことを感じさせてくれます。最後の晩餐、多くの弟子たちにとってはいつものように先生と過ぎ越しの食事をするという単純なことと思っていたのに、その日のイエス様はいつも以上に荘厳に荘重に語られます。パンを祝福するだけでなく「これは私の体=私自身である」ことを宣言されます。これは新しい過ぎ越し、新しい契約のためにご自身がいけにえの小羊であること、いよいよその時が来たことを表します。 イエス様は出会った人々、弟子たちを愛し続けているしるしとして、彼ら信じる人々に、彼らを生かす形でご自分のシンボルを遺して下さったのです。これから弟子たちの目の前には、十字架という、受け止められないような「死」が訪れてきます。しかし、目に見えなくなってもイエス様は彼らを愛し続けていることを、このご聖体を与えることによって示されたのです。ご聖体、それはパンの姿になっても私たち一人ひとりを訪れて下さるという、イエス様の決して裏切られることのない約束なのです。「キリストの体」、それは、このパンはキリストご自身ですということと、これを受け取るあなたはキリストの体である教会の一員ですという、両方の意味が込められているのです。このことに対して、私たちは「アーメン」(その通りです。そしてそのようになりますように)と答えるのです。 【祈り・わかちあいのヒント】 *二人の弟子たちは「イエスの晩餐」の場所を探しに行きました。わたしたちにとってイエスとの語らい、交わりの場所はどこにありますか?