2024年5月12日
主の昇天 マルコ16:15~20

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」

 復活節もいよいよ昇天・聖霊降臨という節目を迎えます。イエス様はご復活の後、40日間にわたり、様々な時、場所、人々にご自分を現し、ご自分が死に打ち勝ったことをお示しになりました。ルカ的な救いの歴史によれば、復活・昇天・聖霊降臨はこのような流れの中で説明されていますが、他の福音書においては、この3つの出来事は同じ救いの出来事の様々な側面として語られることも多いのです。

 マルコ福音書においても、主の昇天と聖霊降臨(全世界への弟子たちの派遣)は同時のこととして語られています。宣教という用語は、今日では一般的なことばとしてよく知られていますが、実はこのことばはマルコが使い始めたものなのです。マルコにおけるイエス様の派遣のことばは7つの要素になっています。①全世界に行って ②洗礼 ③悪霊を追い出す ④新しいことばで語る ⑤蛇をつかむ ⑥毒を飲んでも害を受けず ⑦病人に手を置く これらのことばはイエス様自身の宣教の活動を示すことばでもあり、弟子たちがイエス様と同じように宣教することを表しています。また、宣教は弟子たちの力によるものではなく、復活して全世界の信じる人々の中におられるイエス様との協力・共同の行いであることをマルコは語っています。「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と(マルコ16:30)。

 宣教とはわたしたち人間が人間の知恵で語ることではありません。イエス様は復活して全世界の人々の心の中に語りかけておられるのです。主の昇天ということは、イエス様が天の遠いところに行ってしまったことを意味するのではありません。ヘブライ語の「ハッシャマイーム・天」は、わたしたちがこの地上のどこにいてもいつもわたしたちの頭上に天があるように、いつもわたしたちとともにいることを表すことばなのです。「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるあの主の祈りも同じことを意味しています。弟子たちはイエス様と一緒にいるとき、自分の言葉でイエス様を語ることはありませんでした。それは目の前にイエス様がいるからと思っていたからでしょう。イエス様がある意味で見えない、けれど彼らの心の中にイエス様を感じているからこそ、それを語りだしたのです。今のわたしたちも弟子たちのように語るよう招かれています。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちの視線は地上の高さではなく、父なる神のおられる天、イエス様の視線でなければならないのでは?