2024年4月7日
復活節第2主日 ヨハネ20:19~31

 復活節は聖霊降臨祭まで続く典礼季節であり、復活にまつわるさまざまな記述が朗読されてゆきます。特に第1朗読は特別に使徒行録が継続的に朗読されてゆき、初代教会の生き生きとした活動とその発展が、毎年、この時期に朗読されます。教会は「いつの時代も初代教会」なのです。この精神はとても大切なことで、「いつも復活した主キリストが私たちとともにいる」から「生き生きと活動できる」のだということを忘れてはならないと思います。

 さて、今日の福音はヨハネ20章から、「週の初めの日」すなわち日曜日に2度にわたって弟子たちのところに現れたイエス様と弟子たちのエピソードが語られています。最初の出現ではトマスがいませんでした。それゆえ、トマスはイエス様の出現を仲間の弟子たちから聞いても受け入れることができませんでした。彼もまたイエス様に会いたいと願っていたのに、それがかなわなかったことから来る寂しさゆえに素直になれず、頑なな心になっていたのでしょう。

 「あなたがたに平和があるように」――復活したイエス様の登場の時にこのことばが度々繰り返されます。これはミサのことばの中に残されているほどイエス様の復活を信じるキーワードとなっています。週の初めの日すなわち日曜日を「主の日」と呼び、仲間とともに集まり、「主のことば」である「福音」を聞き、「主が残された不思議なわざ」の記念である「パンを裂く儀式」を行なう時、主キリストは「みことば」と「パン」の姿で私たちとともにいてくださり、ゆえに私たちキリスト者はキリストであるイエス様を信じ続けること、仲間を信じて助け合うことが出来るのです。

 私たちの信仰は一人で支えることは出来ません。ミサに参加しないでいるキリスト者はトマスと同じ寂しさ、仲間のことばに素直に従えない弱さを感じることでしょう。福音記者ヨハネはこのことを強調するために、イエス様自身の口を通して「見ないのに信じる人は幸いである」と教えてくださったのです。

 復活したイエス様が私たちとともにいてくださるしるし、それはミサを通して表されます。私たちが心を込めて捧げるミサであればあるほど、初めてミサに参加しておられる人々にもそのことは伝わると思います。「何故だろう、この集いには他のところでは感じることの出来ない、神聖さ、静けさ、穏やかさ、和やかさ、平和、喜びがある」と。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちはどんな時、トマスのようになってしまうのでしょうか?