2024年3月24日
受難(枝)の主日  マルコ15:1~39

 いつものように受難の主日には、2つの福音の箇所が朗読されます。枝の行列の際に朗読されるエルサレム入城の場面(マルコ11:1~10)と受難の朗読(マルコ15:1~39)です。この2つの朗読は、対照的なものです。エルサレムの住民のメシアを迎えての歓呼の声、しかし、それから数日後には同じ民衆が、同じイエス様に対して、「殺せ、十字架につけよ」と叫ぶのです。

 エルサレムの住民の弱さ、罪、おろかさは、「自分たちの望み通りのメシアではない、自分の都合にあわないメシアなどいらない」とイエス様を拒絶してしまうのです。彼らの望んでいたメシアは、ローマの支配を排除し、イスラエルに繁栄をもたらすことを言ってくれるメシア、そして神様の力を自分たちの望みをかなえるために惜しみなく発揮してくれるメシアだったのです。

 イエス様は、そのような人間の欲望を満たすための「万能のしもべ」ではなく、「主のしもべ」としての生き方を貫かれます。「彼は民の罪を負って、屠所にひかれる小羊のように従順に死に赴かれます」。イエス様はイザヤが預言していた苦しむしもべなのです(イザヤ49:1~9、50:4~11、52:13~53:12)。イエス様自身もそのことを表すために、あの詩篇22のことばを語られました。「エロイ、エロイ、レマサバクタニ」(わたしの主よ、わたしの主よ、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか)。この言葉は絶望の言葉ではなく、最悪の苦しみの中にあってなおも神への信頼を表明する祈りの詩篇であることはイスラエルの全員が知っていました。百人一首のようにイスラエルの人々は詩篇の全部(150篇)を覚えていましたから、詩篇22の全体を読んでみればそれはすぐにわかります。イエス様の気持ちはただ父なる神に向けられていたから、このおろかな人間の侮辱、喧騒、無理解の中にあっても自分を見失うことはなかったのです。

 そして、「この人はまことに神の子であった」という百夫長のことばで受難の朗読がしめくくられることは印象的です。マルコ福音書の冒頭のことばは「神の子 イエス・キリストの福音のはじめ」であり、イエス様を「神の子」であると気が付き、受け入れたのは異邦人である百夫長であったことが、キリスト教の歴史を見ると初代教会の歩みを暗示するものに見えるのです。ペトロたちに「あなたがたは人の子を誰だと思うのか?」と尋ねられたように、イエス・キリストとは一体、どのようなお方なのか、今日、また十字架の前に立って、わたしたち自身も考えてみなければなりません。そして、そのイエス・キリストを信じることはわたしたち自身の人生をどのように変えるものであるかを考えてみなければなりません。

【祈り・わかちあいのヒント】
*なぜ百夫長は「この人はまことに神の子であった」と言えたのでしょうか?