年間第4主日は、先週に引き続きイエス様のメシアとしての1日が語られます。ガリラヤ湖畔にて、宣教の第一声を宣し、4人の漁師を弟子として召しだされたイエス様は、カファルナウム(ガリラヤ地方の中心地)において、安息日という旧約時代・ユダヤ人の信仰の中心となる日に、会堂というこれまた旧約時代・ユダヤ人の信仰の中心となる場所において、みずからのメシアとしての姿を現し、教えを宣べられます。
その姿、その語られた内容は、ユダヤ人たちに大きな驚きを引き起こします。それはイエス様の語られたこと・語り方が「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と聖書は記しています。当時のユダヤ人たちの信仰生活は、「安息日・会堂・律法」という「時間・場所・掟」に縛られたものでした。イエス様は、それらのものをはるかに超える神の愛の力強さに満ちた教えを語られたのです。そしてそれは、ユダヤ人たちに感動を引き起こし、思わず聞き入ってしまう、また賛同せざるをえない説得力と迫力に満ちており、「権威ある者」の言葉として受け留められたのです。
そこに唐突に悪霊が叫びだします。「ナザレのイエス……神の聖者」と、イエス様が誰であるか敵対者である悪霊さえもイエス様を認めているのです。これはマルコ福音書の特徴の一つだと思います。まだ民衆がこの方が誰であるかを悟る前に、敵対者である悪霊がイエス様を「神の子・神の聖者」と気がついているのです。イエス様において神の国は到来しています。すなわち人間の世界を支配している狂気からイエス様によって解放され、神の愛による統治が力強く始まっているのです。イエス様のことばによってこの悪霊に取り付かれている人は解放されました。
この有様を見ていた人々は驚きます。4人の弟子たちはその現場にいて、イエス様と人々の間にあって何を感じたことでしょうか? 人間の世界を支配している狂気は今もこの世界に残っています。と同時にイエス様によってその解放の時が始まっているのです。やがて、イエス様の弟子たちは「悪霊を追い払う権能」を与えられ、人々の中に派遣されて行きます。「イエス様の名によって命じると悪霊さえも従います」と弟子たちは報告しています。私たちの心も私たち自身のものでありながら自分の力や努力だけでは変えられません。イエス様とともにある者だけが、イエス様の力によって「心をあらためる」ことが出来るのではないでしょうか?
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちは「ナザレのイエス」をなんと呼ぶのでしょうか?