2023年6月18日
年間第11主日  マタイ9:36~10:8

「イエスは12人を呼び寄せ、派遣された」
今週と来週の福音はマタイ10章から朗読されます。この10章はマタイ福音書における第二の垂訓と呼ばれ、「神の国の宣教者」がテーマとなっています。この10章において「宣教者」について語られていることをまとめると
①何よりもキリストの弟子であること。(キリストによって選ばれ、キリストによって派遣される)②宣教には迫害がともなうこと。③宣教には勇気と忠実さが求められること。④宣教には決断が求められること。⑤宣教には分離、決別がともなうこと。⑥宣教はイエス様と同じく十字架を担うこと、それによってイエス様の弟子であることが証しされること。

 イエス様が12人の弟子を遣わされる理由・動機は、人々が弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になって、深く憐れまれたためでした。12人を遣わす直前に語っておられるイエス様のことばは重要です。「収穫は多いが、働き手は少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と語っておられます。派遣されるのは12人の弟子たちだけではなく、あらゆる時代のあらゆる人々のために「今日もイエス様はある人たちを選び、権威と使命を与え、遣わされるのです」。ペトロたちは仕事を持ち、家族もいた人々でしたがキリストの弟子となり、派遣されてゆきました。今日のわたしたちはこのイエス様のことばを「司祭や修道士、宣教師となる人々を送って下さい」という祈りのことばとして考えてしまいがちですが、実はわたしたち一人ひとりに向けられたことばなのです。わたしたちの宣教は遠い外国に向かう宣教ではありません。この時代、この日本の地、同じ地域に生きている人々の中に派遣されているのです。つまり、マタイ10章に記されているイエス様のことばはわたしたち一人ひとりが宣教者として生きることに招いて下さっているのです。

 突然、イエス様に呼ばれ、遣わされた12人も自信がなかったことでしょう。まだ経験もなく、どこで、何をすればよいのか、戸惑ったことでしょう。わたしたちと同じように「わたしがキリストの教えについて何を語れるだろうか?」と不安に陥ったことでしょう。これこそが「宣教者」の原点だと思うのです。第一に、宣教は「わたし一人の力で出来ること」でしょうか? 宣教するのはキリストなのです。12人の弟子たちも、これからキリストが行こうとなさる町や村に「二人ずつ」遣わされて行きました。宣教は共同体のわざなのです。第二に、宣教はまず自分自身に対して、キリストのことばをこころと身に沁み込ませることが必要なのです。宣教者に必要なのは、自分がまだいかにキリストのことばを熱心に学ばなければならないかを深く自覚することなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様はわたしを呼んだり、選んだりしているのでしょうか?
*イエス様は何をわたしに行なわせようとしているのでしょうか?