クリスマスとご公現の間の日曜日、聖家族の祝日が祝われます。家庭・家族はどの時代にあっても大切な価値を持つものです。カトリック教会では、家族を「小さな教会」(現代世界憲章48~52)・「人生を学ぶ学校」(キリスト教教育に関する教令3)と表現しています。家庭は愛といのちの絆によって結ばれた人々が「ともにいる場」であり、家族の絆は日々、互いを思い合い、その人のためにしなければならないこと、してあげたいと思うことをことばや行いを通して実現してゆかなければ続かないもの、すなわち生きているものなのです。
さて、福音朗読では聖家族がエジプトに難を逃れるために旅立ったことが語られました。このエピソードの中ではヨゼフ様の果たした役割はとても重要です。イエス様の誕生や幼年時代においてヨゼフ様の果たした役割がこれほど大切なのに、ヨゼフ様のことばは一言も記されていません。しかし、イエス様が「ヨゼフの子」(ルカ4:22、ヨハネ6:42)と呼ばれ、「大工の子」(マタイ13:55)と呼ばれていることからも、ヨゼフ様がナザレやガリラヤにおいて人々から深い人望を得ていたことが推察されます。
ヨゼフ様は夢でお告げを受けます。マリア様の夫になる時も、そしてエジプトへ難を逃れる時も。夢という不確実なもの、多くの人は気にもとめないかすかな兆しをヨゼフ様は見逃しません。大切な家族を守るためです。マリア様も信頼するヨゼフ様がそう決めたなら疑うことなく信じてついてゆきます。ヨゼフ様は周りの人々に、「この人がこう言うならば」と思わずうなずいてしまう、深い、やさしい、広いまなざしと思いやりを感じさせる魅力があったのでしょう。ことばのたくみさや明快な説明がないとなかなか信じようともしない私たちですが、ヨゼフ様の人柄には、私たちのちっぽけなこだわりを溶かしてしまう、おだやかでありながら力強いものがあったのでしょう。
知らない土地でどのように暮らしたらよいのか、マリア様や幼子に無理な旅をさせていないか、今日はどこに泊まろうか、ようやくヘロデ大王が亡くなったが本当に大丈夫かと、次々に起こる深刻な問題や悩みにもヨゼフ様は淡々と、しかも賢明に対処してゆきます。まさに職人業というべきか、学者のような難解な議論ではなく、癖のある材木を手でなぜただけでどう生かすか、形にするかを感じ取って、かんなやのみを使って見事な形に仕上げてゆく姿が彷彿とします。 「幼子は背丈も知恵も増し、ますます神と人に愛された」(ルカ2:52)に記されていますが、この平凡で単純に見えることを実際に行うことはなんと難しいことでしょう。家庭と教会、それは日々の祈りと努力によって育つものです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*家族のためにあなたが日々行っていることは何ですか?