いよいよ待降節も最後の1週となりました。今年のクリスマスの準備はもう出来ていますか?と自分自身に問いかけてみると、「まだまだ」と思っているうちにクリスマスはもう来ているというようなことが多いのではないでしょうか? 今日朗読されたマタイ福音書ではヨゼフ様への夢のお告げという形で、イエス様の誕生が予告されます。これはルカ福音書のマリア様への天使ガブリエルのお告げということといろいろな点で対照的な面があります。マタイ福音書の冒頭にはイエス・キリストの系図とよばれるものがあり、イエス様がダビデの子孫として生まれることが、ユダヤ人からキリスト者になった人たちには、イエス様のメシアとしての正統性を裏付ける意味で大切なことであったのでしょう。
さて、自分の妻となるマリア様がメシアの母となることを知ったヨゼフ様は「これは神様が働きかけて行われるみ業であり、自分はメシアの父親の役割を果たすのはふさわしくない」と考えて、離別することを考えます。それはいかにも謙遜なヨゼフ様らしい考え方でした。しかし、このようなヨゼフ様だからこそ、その役目を果たすのにふさわしい方だったのです。夢のお告げに天使が現れ、「ダビデの子、ヨゼフ」と呼びかけ、「その子をイエスと名づけるように」と使命が託されます。イエスと私たちは発音していますが、ヘブライ語では「イェシュアー」、旧約聖書ではモーゼの後継者として「ヨシュア」と呼ばれる、イスラエルの民を率いて約束の地に導く新しいリーダーの名前です。マタイがイエスの名を告げているのは、新しい天、新しい地に導く、旧約から新約の時代に変わってゆくことをこの名によってあらわしているのだと思います。
マタイ福音書においては、イエス様の誕生の物語の中で、ヨゼフ様は再びあのヘロデ大王の迫害について夢のお告げを受け、エジプトへ避難します。またあの3人の博士たちも夢でお告げを受けて、ヘロデ大王のところには立ち寄らず、自分たちの国に帰ってゆきます。これらのエピソードはマリア様のように直接、天使と出会い、対話してゆくことはなくても、いろいろな事象、出来事を通して、神様からの呼びかけに応えてゆく心を持つことの大切さを教えているように思います。私たちはヨゼフ様のように今、自分がなすべきことについてよく考え、そして行うことが必要なのです。たとえ、それが思いがけないことであっても、面倒なことであっても、自分の利益にならないことであっても、神様の望みであるならばと信じることが出来るならば……
【祈り・わかちあいのヒント】
*自分の夢ではなく、神さまの夢を実現させるためになすべきことは?