2024年4月28日
復活節第5主日 ヨハネ15:1~8

 今日の福音は、最後の晩餐でイエス様がお話しになった「ぶどうの木」のたとえです。ヨハネは、13章から17章までとなんと5つの章もかけて最後の晩餐の中でイエス様が語られたことを記していますが、その中でも15章は中心となる部分です。それはイエス様がご自分を「まことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語られ、そのたとえを通して新しい掟、愛の掟、イエス様の掟(わたしの掟)が示されるからなのです(ヨハネ15:12)。

 先週の牧者と羊のたとえによってもイエス様とわたしたちの絆の深さが語られていましたが、ぶどうの木のたとえによってさらに、イエス様とわたしたちは生命的な絆によって結ばれていることが明らかにされるのです。イエス様は羊のためにいのちをかける「良い牧者」であり、「まことのぶどうの木」であるがゆえに「わたしたちを枝として良い実を結ぶ」ことが出来るのです。「わたしを信じるならば、わたしと同じことを行う」(ヨハネ14:12)のはイエス様がわたしたちの中に生きておられるからなのです。

 今日のわずか8節の福音朗読の中で、7回も繰り返されている「とどまる」ということばと6回も繰り返されている「実を結ぶ」ということばがとても大切です。「とどまる」(メノーという動詞)は、旧約聖書では、この世の物事や異教の神々が「とどまらない」のに対して、神とそのことばは永遠に「とどまる」という意味で使われています(詩篇117:2、イザヤ40:8)。新約聖書ではこのことばの用例が118回ありますが、ヨハネ福音書では40回、ヨハネの手紙では24回と合計すればその使用例の過半数となり、このことばにヨハネが特別な意味を込めていることは明らかです。

 洗礼の時、聖霊がイエス様にとどまったことを語るのはヨハネ福音書だけです。イエス様に最初に呼びかけた弟子たちのことばも「先生、あなたはどこにとどまっておられますか?」というものでした。イエス様が父の掟を守って、父の愛にとどまって(包まれて)常に生きているように、わたしたちもイエス様の愛に包まれて(とどまって)常に生きるのです(ヨハネ15:9~10)。そのためには試練もあります。イエス様に付いていても実を結ばない枝は切り払われるのです。実を結ぶ枝であっても、さらに良い実を結ぶために父によって刈り込まれる必要があるのです(ヨハネ15:2)。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちがイエス様につながっているため(とどまるため)に何をすればよいのでしょうか?