旧約聖書レビ記13章には、ハンセン病(皮膚病)についての当時の医学的知識が並べられています。重い皮膚病にかかってしまった人たちを当時のラビたちは生きたしかばねと見なし、この病からいやされるのは死者がよみがえるのと同じくらいに難しいと考えられておりました。
一人の重い皮膚病を患っている人がイエス様のもとにやって来て、ひざまずき願いました。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。いやしのエピソードにおいては、いやしを求める人々のイエス様に対する信仰・姿勢・信頼・心の動きを洞察しなければなりません。彼らの信仰がイエス様に近づき、イエス様はそれに答えてくださったのです。マルコ福音書においては特に、このイエス様への信仰をもって近づかなければイエス様もその持っておられる力を発揮できないことが強調されています。マルコ6:1〜6には故郷ナザレの人々の不信仰のゆえに、驚かれ、奇跡を行うことが出来なかったと記されています。
ですから、今日の福音の箇所に登場するこの人の姿勢は、見事にイエス様への信頼・信仰を表していました。「ひざまずく」という姿はもっとも真剣な祈りの姿であり、また「み心ならば」ということばは要求ではなく、あわれみを請う心であり、「み旨のままに」という全面的な信頼を表しています。
翻訳ではイエス様のお答えのことばが「よろしい。清くなれ」となっていますが、別の翻訳では「わたしは望む。清くなれ」(フランシスコ会訳)ということばになっており、イエス様がその人の「御心ならば=お望みならば」ということばに呼応してお答えくださっていることがより鮮明になっています。この病気にかかってしまったらもはや家族とも仲間とも生活することが出来ず、仕事や社会からも隔てられてしまいます。人と人とが一緒に生きられないその壁、隔たり、障害をイエス様は取り除くために来られたのです。(エフェゾ2:12〜22)
私たちを生きられなくしている隔たり、妨げ、それは私たちの心の中に、いろいろな形であるのです。イエス様に近づき、イエス様に願い、イエス様に触れていただく時、私たちの心は清くなることが出来るのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちが「み心にかなうならば」と望んでいることは何でしょうか?