講師:阿部 仲麻呂神父様(サレジオ修道会)
はじめに
皆さん、おはようございます。今日初めて皆さんにお会いします。前からこの教会に来てみたかったのですが、ようやく来られました。というのは、20年前から東京カトリック神学院で教えているのですが、神学生たちとの話の中で関町教会の活動とかミサの話題が出ます。神学生たちが関町教会の信徒の方々から親切にされているとか、子どもがたくさんいるとか、侍者の準備がたいへんだとか……。そういう家族的な協力体制のある関町教会に行ってみたいと思っていたのですが、勝手に自分から行くわけにはいかないので、招かれたのでようやく来られました。感謝しています。 今緊張しています。どうしてかというと、稲川保明神父様は私の恩師で、教会法を上智大学の大学院で習いましたので、恥ずかしいというか。お世話になりましたので。石井祥裕先生も、オリエンス宗教研究所でお世話になって、私がマスコミで執筆する最初のチャンスを作ってくださった方でした。私はいろいろな本を書いていますが、石井先生がいらっしゃったからこのようなことができるようになったのだと、恩人として感謝しています。 上智大学では、藤野さん、石川さんも教えましたので、私のことを間近で見ているので欠点も見ているでしょう。それでも。今日は四旬節講話ですから、良いことを言わないといけないので、真面目に話をします。自分自身、まだまだ足りないところがあり、欠点もありますけれど、皆さんから教えていただいて一緒に歩めればと思います。
きょうのテーマ
今日はイエス・キリストとの親しさ、つながりを確認します。「シノドスの心」というテーマです。 「シノドス」という言葉はカトリック新聞などでは「世界代表司教会議」と訳されており、司教様たちが定期的にバチカンで話し合いをするという集まりとして知られています。これは、第2バチカン公会議の後にパウロ6世が始めた習慣です。全世界の司教様たちでテーマを決めて、つながりを深める、チームワークをしていくという会議で、パウロ6世が世界中の司教様たちを団結させようという意図で始めた動きです。 ところが、教皇フランシスコはそれをもっと広げようとしています。世界中の司祭、信徒の方々、修道者も含めて、みんなで話し合ってみんなで司教様を支えて、一つの大きな家族意識を持つという意味で、今回のシノドスを2023年・2024年の2回に分けて話し合う流れとして設定したわけです。その準備を2021年から始めており、それぞれの教会の信徒たちや司祭、修道者が話し合ってきたことを司教様たちが今年の10月にローマに持ち寄って、全世界の代表司教会議を開きます。そう考えると2021年から始まってもう3年目になります。3年ということは、イエス様が宣教活動をしたのも3年ですので、それと同じような長さの流れで私たちは話し合いをしてきたことになります。 2023年10月は、司教たちの代表の会議ですが、教皇フランシスコはそれプラス、2024年の10月にも司教たちが集まることに設定し直しているので、そう考えると2021年から2024年まで、かなり長い時間をかけて本格的に全世界レベルであらゆるキリスト者を巻き込む話し合いが今続いているということになります。これはもっと遡ると1世紀からある動きで、キリストのことを思い出しながら残された十二使徒たちが集まって話し合って、その意見を信徒たちとも分かち合う共同体の話し合いがあり、それがもう「シノドス」と呼ばれています。この1世紀のエルサレム使徒会議からそういう流れが深まっていますので、歴史的には2000年前の流れです。それがパウロ6世によって本格的に組織され、そして教皇フランシスコによって今あらゆるキリスト者を巻き込む形に広がっているということです。
シノドスの本質は「キリストとともに」
「シノドス」というのはラテン語ですが、元のギリシア語で「シュン ホドス」です。「シュン」とは「いっしょに」、英語のwithと同じです。「ホドス」は「道」という意味です。つまりシノドスとは「道を一緒に旅する」という出来事です。しかもヨハネ福音書によると、イエス・キリストご自身が「私は道である」(ヨハネ16・4参照)と自己紹介しているので、「道」とはイエス・キリストそのものを意味してもいます。したがって「道を一緒に歩む」というのはイエス・キリストと一緒に歩むことでもあるし、私たち一人ひとりがイエス・キリストと出会って、私たちもイエス・キリストのように社会で歩むことです。すなわち私たちも第二のイエス・キリストとして今生きているので、洗礼を受けてイエス・キリストの弟子になっていること自体、イエス・キリストとつながっていることですし、私たちの生き方も道になっています。ということは、一人ひとりの人生の道を、他の人とも協力してチームで動いていくということも、「シノドス」という言葉が意味しています。 イエス・キリストという道に沿って一緒に歩む。イエス・キリストと仲間として歩むという意味もあるし、洗礼を受けた者である私たちも第二のキリストとして他の人と一緒に歩むので、他の人から見たら私たちもキリストと同じような、一人ひとりの証しする姿を示しているので、とするならば私たちも一般の人と一緒に歩まなければならないということも見えてくるので、いくつもの意味が「シノドス(シュン ホドス)」というギリシア語に重なっています。そのすべての意味を含めて日本語に訳すのが難しい状況がありますので、「シノドス」はそのまま片仮名で表記されているわけです。片仮名だけが広まって、意味がわからないと悩んでいる人がいらっしゃると思いますが、豊かな内容なので訳せないというのが実情です。 簡単に言うと「キリストとともに」という意味になりますが、キリストとともに生きる、歩む、旅をする、キリストという道に沿って、私たちもお互いに協力して働くという意味もあるので、「協働」という訳もあります。それだけにとどまらないので、もっと簡単に言うと「キリストとともに」ということになるので、今回は「キリストとともに」というテーマにしてあります。
司祭としての25年間を過ごして
昨年、司祭叙階25周年を祝ったときに、25年司祭職を果たしてきて個人的に感じ取ったことが、「キリストとともに」というイメージです。私たちはキリストとともに生きるに過ぎないと感じました。25年間、実はなにもできなかったわけで、十分に働けなかったという口惜しさがあり、自分を中心にして考えればそういう足りなさが見えてきます。でも、キリストの横にいて一緒に協力する司祭として生きるのであれば、キリストとともに歩む、キリストに任せながら歩む、手助けするということなので、もっと気楽に過ごせるし、こちらの足りない分はキリストが補ってくださるので、安心できます。25年間は自分で解決して自分で働こうとして頑張り続けて、足りなさに打ちのめされた日々だったのですが、26年目はキリストとともに、横で手助けだけして目立たないように支えていければそれでいいかと、今思い至っています。その気持ちも「キリストとともに」というテーマに込めています。 皆さんも、親として子育てをしたり、就職して社会で働いたりしておられるときに、自分で努力してがんばろうとして走ってきたと思います。自分で背負って解決しようとするときに、いつも足りなさとか限界に気づかされて打ちのめされたこともあると思います。自分で努力したけれども十分でなかったという反省が残っているはずです。でもこれからは、キリストとともに、キリストの横に私がいて一緒に働くという意識を持てば、少し安心できると思います。 司祭であっても信徒であっても修道者であっても、キリストを主役にして横で支える態度で進めば、自分だけで背負わなくて済むし、気楽に進んでゆけるし、キリストが中心になってさえいれば、私たちが不十分であってもなんとかなるという安心感が出てくると思います。そういう洗礼を受けたあらゆるキリスト者に共通する心構えとして「キリストとともに」というテーマを今回選びました。
黙想とは、キリストを迎え、一緒に過ごす時
今日は黙想会ですので、皆さんがキリストの横にいて一緒に歩んでいく、キリストの協力者になるという意識で進めるように、そこに気づかせるヒントだけを残せればと考えています。 黙想とはキリストの横に私たちがいて一緒に歩んでいることを味わって、思いめぐらす作業です。「私とキリストがどうつながりがあるか」それをイメージして考えて祈ると良いと思います。皆さんもいつも日常生活で祈るときも、キリストがいてその横に私がいる、キリストと二人でいるという意識でいると、黙想ができます。キリストと私がここに一緒に佇んでいる。キリストと私が社会の中で何か良いことをしようとしている。二人三脚で協力するというイメージで佇むのが黙想ということです。黙って心の中でキリストと過ごすひとときを味わってみるということです。 皆さんも、大切な人とか、家族、恩人と一緒に佇んで、お茶を飲んだり、一緒にいるだけで嬉しくなったりすることがあると思います。心の穏やかさは、自分にとって本当に信頼できる人と時間を過ごすことのうちにあるというのは体験的にご存じでいらっしゃると思います。それと同じで、キリストと私が一緒に佇んで、味わい深くそこにいるということが黙想なので、信頼できる相手と会って過ごすというイメージで考えると良いと思います。家族、友人、恩人と過ごして、お茶を飲んだり食事をしたり、面会することに喜びを感じると思いますが、それと同じようにキリストをお迎えして、キリストと出会って一緒に佇んで、一緒に何かしていくということを心の中で思い起こすと、もっと信仰生活が明るくなります。 キリストと自分を切り離して、狭い視野で自分だけで見てもがいてしまうと落ち込むだけです。教会に通って信仰生活を送るのも重荷になってしまう。冬のこの寒い日にわざわざ家から出てミサに通うということはたいへんかもしれませんが、大切な信頼できるキリストさんに会いに行く、待ち合わせをするつもりで日曜日の教会に来るともっと気楽に集まれます。キリストを友達、恩人として理解して、キリストを家族扱いして、一緒に過ごすイメージで生活する。そうすると、日曜日に教会に通うときに気持ちが晴れやかになります。私たちは、友達や親しい人と久しぶりに会うため待ち合わせをするときに嬉しく感じますが、あの嬉しさの感覚をキリストとのつながりにおいても味わっていくことが大事で、黙想会というのはそれを意図的にきちんと確認しながら、練習してキリストを意識するひとときでもあります。
黙想とは思いめぐらし、嚙みしめること
このような黙想のしかたを教えてくれているのが、教皇ベネディクト16世です。2022年12月31日に天に召されましたが、彼が教皇職を果たしているときに「黙想について」という講話をしています。これは『イエスの祈り』というタイトルで、ペトロ文庫(カトリック中央協議会発行)に収録されています。 この講話は、黙想のポイントとして、一つ目に「思いめぐらす」こと、二つ目として「咀嚼する」ことが大事であるとしています。自分の体の中に組み込んで受け入れる。思いめぐらすことと咀嚼すること、その二つが黙想の方法ですと述べています。一つ目の「思いめぐらす」は、マリア様があらゆる出来事を心の中で密かに思いめぐらしていたという、ルカ福音書(2・19参照)に描かれている態度です。マリア様のように、起こっている出来事をしっかり心の内側で受け止めて思い出して味わうということです。意味がわからなくても心の中でじっくり味わっていくという態度です。 二つ目の「咀嚼する」は、嚙みしめて体の内臓に染み渡らせて自分の血肉にしていく、自分そのものに取り入れていくという作業、これは聖アウグスティヌスが述べていることで、聖書の言葉を嚙みしめて、自分の心の中、血液の流れ、体全体に染み渡らせて生きる、ということです。読んで終わりにせずに自分の体そのものの内側に入れ込んで、自分そのものに変化させてゆくということです。聖書を読んで自分のものにしている人は、それを生きることができるので、聖書の説明をしなくても体の振る舞いそのものが聖書的になってゆきます。それが今日の日本の福音宣教の特徴です。一般の人に聖書の言葉をそのまま解説しても通じないわけですが、私たちが聖書のメッセージを読んで自分の体の中に取り込んで自分で生きてしまうことで、自分の振る舞いが愛情深さになっている、その愛情深さを見た一般の人が何かを感じ取って、本物の生き方に気付くことになるわけです。アウグスティヌスは、古代において、そのような「咀嚼する」「嚙みしめて自分の血肉にする」「血となり肉となる聖書の御言葉」という発想を述べていました。 教皇ベネディクト16世は、このように聖母マリアと聖アウグスティヌスから学んで、黙想のしかたを現代に伝えてくれています。皆さんも聖書の言葉を嚙みしめて、意味がわからなくても心の中で言葉を思い出しながら味わうマリア様の態度と、そしてそれを体そのものに入れ込んで自分の生き方にしてしまう、咀嚼する聖アウグスティヌスの態度から学ぶことで、主日のミサで3度聞く聖書朗読の言葉が生活に向かっていくことになります。ベネディクト16世が見事にまとめて示してくれている「黙想とは思いめぐらして咀嚼することである」という、この二つのポイントさえ行えば私たちは、毎週ミサに与り、三つの聖書朗読を聞いたときの内容が生活に変換されていくのです。
「識別」-キリストを選ぶのか、他のものを選ぶのか
(これから、お配りした資料に沿ってお話ししていきましょう) 先ほど述べたように、教皇フランシスコは、今回のシノドスの基本的な流れを2021年から意図的宣伝して、皆に考えさせようとしてきています。その流れの中で私たちも生きています。幸いなことに東京教区では菊地大司教様と小西広志神父様(フランシスコ会)が協力してシノドスの意味を考えて生きる講話やさまざまな話し合いの場を設定してくれています。お二方の考え方とわかりやすい説明をヒントにして進めば良いと思います。 教皇フランシスコは2013年に教皇職を始めて今10年経ちました。2023年10周年を迎えようとしています。この教皇が10年間してきたのは、一人ひとりの生き方をキリストと結びつけることでした。キリストを選んで一緒に生きる、キリストと親しくなることを10年かけて教皇フランシスコは呼びかけていまして、「あなたはキリストを選ぶのか、他のものを選ぶのか、どうするのか」という問いをいつも発してきました。それが「識別」という専門用語で言われていることです。 キリストと他のものを比べて、自分の心がどれだけキリストに向かっているかを確認する、判定する作業が「識別」です。それは自分の生き方をわきまえる、探し求める作業です。キリストを規準にしてキリストと一緒に歩んでいれば、明るく、他の人を幸せに導くことができるわけですが、自分を選んでしまって自分の利益だけを考えて狭くなってしまうと、自己中心的で自己保身に生きる生き方に閉じこもってしまうわけで、それが問題点です。 現代の世界の問題は全部自己中心的な態度から始まっています。自分さえ良ければ、自分だけいい物を独り占めしようという態度ですが、それが広まるときに戦争が起こります。自分の国だけを自己主張して、他の国をつぶして、自分の領土に組み込もうという政治家の野心も、自分の国のことだけを考えるので、間違った方向に向かうわけですし、親も職場の上司も、自分の理想に沿って動いて、それだけを主張してしまうと、他の立場とか若い人の考え方が反映されないチームになってしまって、皆居心地が悪くなる場合があります。他の人を支えて幸せに導こうという意図でリーダーが動けば、みんなが協力し合える安心感が生まれるのですが、自分の主義主張だけを正当化してそれだけを押し通してしまうリーダーが上に立つと、たいへんな状況が生じます。 私自身も限界があります。どうしても自分の理想をもって動いてしまうタイプなので、他の人の気持ちを考えずに目標だけ設定して、それを皆に強制してしまうことがいつもあります。教師として、絶対に必要なポイントを学生に暗記させて、その型どおりに流れを作ろうとしてしまうわけで、学生が考えて自由にそれぞれの歩みを作っていけるようなゆとりがなくなってしまうという欠点があります。教員としてはもう30年以上いろいろな場所で教えてきて、毎年、今年はもう引退しようかと思っているのですが、毎年ずるずると続けています。どうしてやめようかと思っているかというと、自分はどうしても強く教え込んでしまって、相手を伸ばせないという状況があって毎年失敗しているからです。他の人が教員になったほうがいいのではないかと思いますし、年をとっても一つのポストに居座り続けることで多くの人を傷つけるのではないかという不安を抱えています。 話が逸れましたが、「識別」とは「わきまえる」ということで、自分の生き方がキリストと重なっているかどうかを見ることで、そこから外れてしまうと自分が中心になってしまって、自己主張する、自己中心的な自己保身に向かってしまうわけで、キリストの横にいさえすれば間違うことはありません。キリストを忘れて自己主張をするというのは、宗教的なグループの人にもよくあって、自分が神であるかのように、自分が救世主であるかのように自己宣伝して、他の人を巻き込んでその教えに取り込むのが洗脳ということで、今カルト的な動きが社会問題になっていますが、カルト、人を傷つける危険性のあるグループの動きというのは、自己絶対化する、自己主張するリーダーが起こす動きです。そういう宗教的色合いをもった危険なグループがカルトと呼ばれていますが、宗教とは全く違うものです。自己主張する、単なる絶対的な権威を求める人間のグループに過ぎないわけで、人間が上に立ってしまうと必ず間違うということを、カルトの間違ったグループが教えています。それに対して私たちキリスト者はキリストの横に立って一緒に歩む、キリストを中心にして謙虚に振る舞うという態度で集まっているわけで、それが教会のグループの特徴です。 私も司祭職を果たしながらいつも悩んでいることは、人を傷つける、自己絶対化するリーダーのいるカルト集団とキリスト者の教会が紙一重のものではないかと、似ているのではないかということです。一歩間違うとカルトに成り下がる。人に強制して、無理やりお金を集めて洗脳するということと、共通部分が出てしまうのではないかと、いつも怯えています。私が教えたことが強制的な圧力になってしまって、人を傷つけていることもあるかもしれないし、無意識のうちに圧力をかけていることもあるのではないかと、いつも反省するわけです。自分ひとりで考えるとそういう欠点が見えてきて、世の中のカルト集団と同じ危険性を感じさせますが、キリストが中心でその横で一緒に働くというイメージで考えれば、少し解決策が見えてくるような気がしています。キリストが中心だから私はただのしもべとして横に仕えているだけで良いということです。それならば、私が絶対的な権威者になる危険性はないし、いつも謙虚に振る舞っていられるわけで、人間が自分の能力を勘違いして上に立ってしまうと、カルト問題と同じことが教会の中でも起こりうるのですが、キリストが中心でその横で奉仕するしもべとして振る舞うならば、問題は起きません。自分の立場、居場所をわきまえるということです。これが「識別」ということでもあるわけで、キリストの立ち位置と自分の立ち位置をしっかりとわきまえて生きるということです。 親の方々も子育てをするときに、キリストが中心で、その協力者として自分が子どもに接する、キリストと自分で子育てすることをイメージして家庭生活を過ごせば、間違えることがないと思います。キリストを抜きにして親だけが中心になって子どものほうに向いてしまうと、子どもに圧力をかけたり、親の都合を子どもに反映して、親の夢を子どもに叶えさせようとしたりする危険が出てくるわけです。それに対して、キリストを主役にして協力者として横にいて、キリストと私で協力して子どもを教育していくならば、キリストの働きを意識しながらサポートするだけですから、間違うことがないのです。会社の上司として職場の責任者となっている方々も、キリストの横でサポートする脇役としての自分を意識して働けば、上司として他の人を適切に教育できるかもしれません。 あらゆるキリスト者にとって、キリストを中心にしてその横でそれを支える謙虚な振る舞い方をイメージして生きるという道を選ぶときに、信仰生活が正しい方向に向かいます。キリストを抜きにして忘れて自分だけの主張を振りかざすと、非常に問題が生じるのです。 私も若い頃は、学生や神学生に対して叱りつけたり怒鳴ったりすることがよくありました。相手の状況を考えずにこちらの都合で叱りつけるわけで、その叱りつける行いが自分の都合による怒りと結びついてしまい、正しいアドバイスであっても、人間は必ず自分の主張を押し通す、感情的な動きで相手を叱りつける危険性があるので、それを避けるには、横にキリストがいるイメージで言葉を発すると、間違いないということです。あらゆるキリスト者が正しく生きるには、キリストが自分の真横にいるというイメージで毎日過ごすことが重要で、そのイメージさえ持てば変なことはできません。キリストを忘れたときに問題が起きるのです。
教皇フランシスコの教えの特徴
資料の2ページになりますが、教皇フランシスコの10年間の特徴として、彼は元イエズス会の司祭でしたので、イエズス会の特徴で霊的指導を心がけています。彼は人を導いて、人をキリストに近寄らせて、キリストと一緒に歩めるように準備させる仕事をずっとしていたのです。それが霊的指導、養成の仕事です。教皇になってからも同じことをやっているのではないかと私は解釈しています。10年間、教皇フランシスコはいつも人の気持ちをキリストに近づけて、キリストと一緒に歩ませる後押しだけをしているので、実際に人を生かすほうに興味があるようです。 教皇フランシスコが書いたものは、ベネディクト16世が書いたものと比べると文章がスカスカでわりと気楽なものです。日常の言葉で文章が書かれていて、しかもアルゼンチンのことわざとか生活習慣の話題がよく出てきます。アルゼンチン以外の土地で暮らしている人にはちょっとわからない喩えが出てくることもあって、そういうのを日本語に訳す中央協議会の翻訳者の人たちは苦労していると思います。日本語に訳しても意味がわからないこともあります。 教皇フランシスコは、世界的に形を整えて教会を導く、思想を残すような人物ではなく、非常に具体的にキリストと人を近づけるためのアドバイザーとしての働きを心がけているように見えます。公文書としては、ベネディクト16世の、明確に考え抜かれて無駄のない言葉でまとめられた文章がとても優れていますが、それとはまた性質の異なる教皇がフランシスコです。彼は常に生ける人を勇気づけてキリストと結びつける仕事をしています。そこに気づけば、彼のリーダーシップの取り方の意味が見えてきます。 私はベネディクト16世が書いた文章のほうが好きで、今でもそればかりを読んでしまっています。教皇フランシスコのものは気楽に読めるけれども、現実主義で生活レベルの話題で終わっているので、後回しでいいやとあまり読まないのですが、でも反省しています。タイプが違うということです。教皇フランシスコは、今生きている人をどれだけ励ましてキリストに近づけさせることができるかを意識して文章を書いているので、現実的で生活に密着したアドバイスを綴っているのです。それがわかったときに、教皇フランシスコの書き方にも納得がいきました。 ですから私たちは、人を比べて受け入れるのではなくて、それぞれの人がどういう意図でそれを行っているか、気持ちを察して受け入れると、つながりが見えてきます。皆さんも、いろいろな立場や年齢の人が日曜日に集まっていらっしゃるわけで、それぞれのこだわりがあってぶつかることもあるかもしれませんが、そのときに「この人はこういう生い立ちでこういうタイプで、こういう信念で育っているんだなあ」と、その人の気持ちを汲み取ってイメージしながら学ぶと解決できます。ちょうど私が、ベネディクト16世の学問的に整理された書き方に魅力を感じてそれにこだわりすぎるあまり、教皇フランシスコのスカスカの書き方に初めはあまり興味を持てなかったのは、自分の都合で考えてしまうからでそうなるのであって、教皇フランシスコの生き方とか、インタビューとか伝記を70冊くらい読んだ結果、彼の生い立ちからくる特徴があるというのがようやく見えてきて、それで彼の書き方にも納得がいくようになりました。
まず聞いてみること
徹底的にその人の気持ちを学んでみることから、歩み寄りが始まるのです。皆さんもこの小教区の中でタイプとか信念が違ってぶつかる相手がいるならば、その人がどういう生い立ちで何を理想にして歩んでいるのかを、会話しながらまず聞いてみて、学んでみる。徹底的に学んだ後で、ようやくその人の唱えている価値観とかが見えてくると親しくなれるので、意図的に聞いて学ぶことから始めると良いと思います。 教皇フランシスコがシノドスで2021年から目指していたことも「まず聞いてみましょう」と言っているわけで、それと同じことです。結局は、小教区の一人ひとりが一緒に歩めるチームになっていけるように、教皇フランシスコがシノドスを設定して、2021年から始めていて、「まず聞きましょう」というそこから始めれば良いということです。 私もこの教皇フランシスコの聞くことから始めるということから学び、今東京カトリック神学院の神学生の言うことを聞きながら、一生懸命、授業時間以外に関わりを増やして、話を聞くように努力してきました。そうすると、その一人ひとりの神学生が、とても尊い気持ちをもって生きているということが見えてきたので、赦せるようになりました。それを無視して授業の内側だけで判断すると、授業に集中していないとか、点が悪いとか、点数だけで神学生を判定して教師は怒りに燃えてしまうわけです。でも、授業時間以外の日常会話とか、食事のときの話題で神学生が言っていることを聞くと、意外としっかり考えていることや、自分の若い頃よりもしっかりと信念を持っている神学生もいるのが見えてきました。畏まった場以外の状況を大事にする必要があるわけです。親も子育てのときに子どもと遊んだり、子どもの自由な時間に付き合ったりして、そこに見えてくる子どもの心の中に隠れている本音とか、本当の鋭さ、良さというものを、学ぶ必要があるのです。それが「聞く」ということです。 シノドスは聞くことから始まるということです。 こういう流れを教皇フランシスコがどうして始めているかというと、16世紀のイグナチオ・デ・ロヨラ、イエズス会を創設したひとりの指導者の黙想のしかたに基づいているわけです。その黙想の指導の影響を受けて、決意して、送り出されて日本に来てくれたのが、聖フランシスコ・ザビエルで、この教会は聖フランシスコ・ザビエルとリジューのテレーズの志を受け継ぐ教会ですので、まさに教皇フランシスコの生まれてきた設立母体のイエズス会の祈りの深さとも結びついていますし、そういう流れの中でフランシスコ・ザビエルが宣教活動をして日本にキリスト教を伝えてくれたのです。リジューのテレーズもいつも世界中のことを考えて祈って、宣教の志に燃えて、狭い修道院の中で祈りを捧げて、正しい気持ちでキリストとともに歩む司祭が増えていくようにと、司祭職の正しい広がりをも祈っていたのがリジューのテレーズだったわけです。 この教会はこのようにフランシスコ教皇の流れに影響を及ぼす歴史的な背景も持っているのです。
多様な生き方をしている人たちの調和、ハーモニー
資料の3ページに移ります。教皇フランシスコご自身の言葉を読んでみます。
「最も重要なのは、私たちがそれぞれ違う点をもちながらも、共に同じ道を前進することを可能にするハーモニーなのです。このシノドス的アプローチこそ、世界が今、切実に必要としているものです。相手を倒そうと対立や闘争に向かうのではなく、それぞれの違いを表に出し、互いに耳を傾けた上で成熟に向かっていけるプロセスが必要なのです」
教皇フランシスコ[早野依子訳]『コロナの世界を生きる』PHP研究所、2021年、114頁
それぞれの人がそれぞれ違う生き方をしている。でも、同じ道を前進する。違った能力、違った生い立ちを引きずりながらも、一緒に歩む。それが調和、ハーモニーで、オーケストラと一緒です。それぞれの楽器の専門家がいて一緒に曲を奏でますが、それぞれの能力を活かして演奏します。相手の音に耳を傾けながら演奏していくときに、オーケストラの曲が調和を生み出して、聴く者たちを慰め、勇気づけます。それぞれの人の能力があっていいわけで、違っていて良いわけです。一緒に集まって一つの曲を奏でる、志を一つにして前に進むことで演奏が響き合いを生み出して、聴く者を勇気づけることができるのです。異なる者が一緒に生きるというのは、オーケストラの演奏と同じイメージで生きるということです。 教皇フランシスコはよく共同体作りをこのように音楽に喩えています。皆さんもそれぞれ専門的な職務とか生き方を深めておられる実力者です。その人たちが集まって、キリストの呼びかけという一つのメロディーを奏でようとしているのです。キリストが指揮者で一緒に音楽を作り、一般の人にそれを聴かせようとしているのです。私たちの演奏が、キリストという指揮者のもとで本当に一人ひとりが実力を発揮して、相手の音を聴きながら一緒に演奏をしていくときに、教会外の人たちが慰めを受けるのです。オーケストラの演奏をするつもりで、この教会共同体を盛り上げていくと良いと思います。良い演奏を一般の人に聴かせるつもりで演奏をするということです。 キリスト者のカテキズムとか教会の教えとか、洗礼の勉強とか、非常に複雑ですが、あれはキリストと出会ってキリストの気持ちを汲み取るための楽譜と同じようなもので、演奏して生きるほうが大事なので、楽譜を演奏する (生きる)、オーケストラとしての小教区というのがこれからのイメージだと思います。 このように本気でキリストとともに演奏して良い志で生きる共同体、オーケストラの演奏があるときに、一般の人たちはそれに感動するわけです。カテキズムとか聖書とか、難しい伝統の教えを知らなくても、本気で生きる人たちの交響曲作り、メロディー作りは、他の立場の人の気持ちに通じるものがあります。協奏曲とかオーケストラの複雑な演奏の理論を知らなくても、どんな人も本気で演奏している良い演奏には、耳を傾けて聞き惚れることがあります。普段泣き叫ぶ子どもも本当に優れたオーケストラの演奏をお母さんに抱っこされながら聴くときに静かに聴く場合があるのです。本物の演奏はあらゆる人の気持ちを引き寄せる力があるわけです。本気で良いことをしようとして協力して、一緒に演奏する人が音を聴いて合わせながら協力する共同体、オーケストラがあるときに、それは全く別の環境にいる人にも影響を及ぼします。本物の呼びかけは必ず力を持つということだと思います。 私も個人的には、ものを書いたりまとめたりして、理論的にきれいに整えるのが好きなので、思想、哲学、文化という形にこだわる人間です。それをきちんとしなければ意味がないという発想があります。でも、本当に考え抜いてものをまとめていくと、ポイントは単純で、イメージとして一つにまとまっていくし、それは日常の普通の言葉で喩えて話しても相手に伝わります。だから本当の学者は、単純な言葉でどの人にも通じる話ができるようにならなければいけないのだと気づかされました。それがこのような教皇の音楽を喩えにした話から気づかされたことです。もちろん、楽譜の研究を綿密にして、徹底的に暗記して演奏するからこそ、良い曲は生まれるのですが、楽譜が読めない人でも良いものを感じ取って、聞き手として感動して受け入れるわけですので、ということは、形を整えるのにこだわるのではなくて、それを乗り越えてもっとあらゆる人の気持ちに通じるような本気の取り組みを集中して行う必要があるのでは、と考えます。 神学生に神学を教えるときも、神学の教科書とかは全部楽譜に過ぎないから全部捨てて自分の体で生きて演奏する、小教区現場の主任司祭として本当に人と一緒に、人の話を聞きながらオーケストラの演奏をしていくイメージを持てば良いということで励ますようにしています。でも今東京のカトリック神学院では皆引っ越しが終わって、要らなくなった本を一つの大きなテーブルに積み上げていくのですが、私が書いた本も3冊載っていました。タダでプレゼントした本なのに置いて行ったな、と(笑)。誰が置いていったんだろうと今ページをめくりながら書き込みの筆跡で探ろうとしています。他の神学院の先生たちもみんな言っています。自分の本だけは捨てないでね、捨てるにしても目立たないようにカバーをかぶせて紐で縛ってゴミ置き場に捨ててね、と言っている先生もいます(笑)。堂々とバザー用の本を置く机の上に私の本が3冊あったというのは、私へのプロテスト、抗議とも受け取れるので、私ももっと謙虚に神学生に親切にしないといけないと反省もしています。
聖霊の働き
横道に逸れましたが、資料3ページの下のほう、また教皇フランシスコの言葉を読みます。共同体の理想の在り方について:
「聖霊は私たちを一致させて教会共同体を活性化し、それぞれ異なる部分を一つの調和のとれた建物にまで構成します。……私たち一人ひとりの多様性をそのまま用いて活かしながら、聖霊は全体の統一性を構築します。聖霊が原初の創造のときから、そのようにしてきたのは、カオス(混沌)状態をコスモス(調和)状態に変える力に満ちているからです。まさに、調和を生み出す専門家が聖霊なのです。聖霊は、それぞれの人間の多様性や豊かさをそのまま活かす力量を備えています。聖霊は、それぞれの人が最も自分らしい個性を活かしながらも、同時に異なる相手を補うことで、いっそう強い絆によって統合されるように、いまもなお、創造のわざを継続する専門家です。聖霊は、このように多様なものたちを導く創造者であると同時に、多様なものたちを結びつけ、調和を与えることで、多様性に統一性を与えるお方でもあります。このように矛盾した現実を一つに結ぶほどの実力を備えたお方は聖霊をおいて他にはいないのです。……聖霊は異なる音色を一つのハーモニーにまで仕立てあげています。聖霊は教会共同体を形づくり、子どもたちや兄弟たちの居場所として、つまりあたたかい家庭としての世界を形づくります」
教皇フランシスコ、マルコ・ポッツァ[阿部仲麻呂訳・解説]『CREDO』ドン・ボスコ社、2022年、89頁、90頁、92頁
温かい家庭、家族を作る聖霊、人と人を結びつける専門家、異なる者同士にハーモニーを生み出させる、隠れた支えをしてくださるのが聖霊と呼ばれているもので、皆さんが教会共同体として一緒に生きて働いて、相手のことを大切にしたいと思っているときに聖霊が働いているのです。相手を結びつける良い志で、温かく話を聞いて一緒に生きようとする。相手のことを考えて一緒に生きる思いやり深さがみなぎるときに聖霊が働いているのです。思いやり深く生きることが小教区の目的です。そのときに聖霊が働きます。 私も東京カトリック神学院で教えていて、食事の時間にも出席してから帰るように努力していまして、それによって食卓の仲間と一緒に過ごす。教師と神学生という違いで見るのではなく、キリストの横で一緒に歩む仲間として、食卓を囲みます。個人的には人見知りで、一緒に食事をするのは苦手なんです。でも努力して、キリストと一緒に、神学生と一緒に食べて、ばか話をする時間を増やすことで、「この人たちはすごいなあ。若いけれどがんばろうとしてるなあ。授業中はだめだけれど人生をしっかり考えているなあ。こういう人たちが司祭になれば日本の教会は大丈夫だろう。自分より優れているなあ」という発見を神学院の食事の時間にすることができたので、そういう「この人たちはすごい」という相手に対する愛おしさが芽生えるときが実は聖霊が働いているときではないかと思います。皆さんもぶつかっていいわけで、相手の話を聞きながら一緒に、同じ仲間として徹底的に関わっていけば、「なんかこの人、しょうがないけれど、頑張ろうとしているなあ」と思えてきます。人間は皆しょうがない人たちの集まりなのですが、そこに愛おしさがあります。カッコ悪いけれどその人の良さというのがあるわけです。そういう、相手に対する「なんかこの人、意外と良い面があるな」という発見をしながら、共に過ごす時間が出てくるときに聖霊が働いているのです。
地球という一つの家に住む家族の協働性
今この教会では新しい建物を建てていますけれど、皆さん方は一緒に絆を深めて協力する、生きる人間としての共同体はもうできていて、今最後の箱だけ作って、それでようやく本当の協力関係にある共同体が完成していくわけです。この教会の優れている点は、先に人との繋がりが土台としてあって、その中で一緒に後継となる若い人たちが住みやすい環境を整えるという順序になっていることです。 教皇フランシスコは世界中、地球全体を家として見立てて、そこに住んでいる人は皆家族だから、家族が痛い思いをしているのを見過ごせないという気持ちで難民支援とか戦争の被害を受けている人の支援を今行っているわけで、家族意識で良いことをしています。教皇フランシスコは別に難民問題の専門家ではなくて、地球という一つのふるさと、家で生きる全人類が家族だから、家族の痛みを黙って無視できないので助けてしまうという動きで良いことをしているのです。家族意識を持つ、地球を一つのふるさと、家として見るということを、教皇は10年かけて述べています。それで「ラウダート・シ」という回勅で「地球はふるさと、家である。そこに住む人は全部家族で繋がっているので、遠くの難民の苦しみは私の家族の痛みでもある」と述べ、家族的にみんなで同じ家に住むという大きな感覚で教皇は世界を導こうとしているのです。この巨大な価値観がこの10年の歩みに結びついています。 私は元々、自分の職務だけを果たしてそれで満足する狭い人間で、遠くの難民のこととか苦しんでいる戦争被害者のことはプロの人に任せればいいやと仕事を分けて考えがちだったのですが、同じ一つの地球という家で人類みんなが家族で、キリストがお兄さんであるならば、父である神が親であるならば、みんな一つで、同じ家の出来事なので、無関心でいられないわけです。難民を難民として見るのではなくて難民の方々を自分の兄弟姉妹家族として見るという感覚を、教皇フランシスコから学びました。それでいろいろ考えて動くようになったわけですが、そういう幅広くものを見るということが教皇フランシスコの特徴です。 それが資料の4ページの下のところにある「協働性」、協力して共に働いて一つの地球という家で、全人類を兄弟姉妹として家族意識、身内の感覚で興味を持って手助けするという「シノダリティー」、協力関係を生きる姿ということでもあるわけで、今それを世界中のカトリック教会が目指しているのです。
聖霊の語りかけに耳を傾けながら
今まで話してきたことと繋がっているのが資料5ページの内容です。ですから同じことなので特に読みませんが、6ページの教皇の言葉を紹介して締めくくりたいと思います。6ページの下の方です。
「(キリストと共に生きる、キリストと協力して生きる)シノドス的な道のりの特徴的な点は、聖霊の役割です。私たちはグループで話し合い、耳を傾けますが、何よりも必要なのは聖霊が何を私たちに語りかけようとしているかに注意を払うことです。だからこそ私は、皆に活発に意見を言い、他人の声に慎重に耳を傾けるように促しています。そこで聖霊も語っているからです。変化と新しい可能性を受け入れるシノドス( キリスト者が教会共同体としてキリストと共に歩む集まり)では、全員が変革を経験します。ですから、スピーチとスピーチの合間には沈黙の時間を設け、参加者が聖霊の働きを感じられるようにしています」
教皇フランシスコ[早野依子訳]前掲書、118頁
相手の幸せを思う、祝福する沈黙の時間があると良いということです。私の個人的なことですが、寝る前にいつも出会った人の顔とかを思い浮かべながら、この人が幸せになりますようにとか、心の中で念じながら眠ります。 いろんな人のことを思い出しながら念じているうちに眠ってしまうので、毎回同じ人が最初に出てきて、あとの人は眠りとともに意識されずにいつも途切れてしまい、眠りの中でそれが祈りになっていくのではないかと思っています。すべての出会った人のためには祈り切れず、やっぱり関わりの深い人の顔だけが最初に浮かんで、その人は毎日祈りを受けていくわけですが、でも眠りとともに神に任せて委ねて祈っていくということではないかと思います。 私たちもいずれ死んでいくわけです。死も人生を終えて祈りの中で相手を神に委ねて意識が消えていくことなので、生きることは 祈りそのものになっているのです。この人に幸せになってほしいと、祝福しながら祈っていくというように、他の人のことを考えて生きる開かれた気持ちを持つことそのものを思いめぐらし、嚙みしめて過ごす寝る前のひとときは死の直前の姿でもあるのです
おわりに
まとめとして、キリストと一緒に生きる、キリストが横にいるイメージで毎日過ごすと、まともに暮らせます、ということです。キリストを無視して自分だけで自己主張すると、人を傷つける権力者になるわけで、そういうキリストをイメージして一緒に歩んでいくことがシノドスそのもので、教皇フランシスコはそれをただ勧めているだけなので当たり前のことを言っているに過ぎないのです。しかし当たり前のことが実は一番大事で、それが信仰の核心で、それを生きればそれで良いのです。それを生きることが大事なので、それを持ってさえいれば意味があるのです。 もう1時間経ちましたので、感謝して終わりにしたいと思います。初めに少し触れましたが、私が今日ここに存在できるのは、稲川神父様と石井先生のおかげでもあります。 裏話ですが、27年前、私は助祭で上智の大学院で最後の勉強をしており、教会法の授業を稲川神父様から習っていました。ある夏の日に、電話がかかってきたので受け取ったら稲川神父様からで、その頃東京大司教館にいらしたのですが、電話に出たら「阿部君は教会法の単位はいらないんですか。レポートがまだ出ていないのですが、このままだと単位を落としますが、授業だけ聴いてレポートは出していないということは成績評価はいらないんですね」という電話でした。「私はもう1週間前に速達郵便で高いお金を払って確実に着くように東京大司教館のほうに送りましたよ」と電話で答えると、「でも届いていません」ということで、消えたレポートはまだ発見されていなくてどこに行ったか謎なんですが、でもたまたまその原稿のコピーを取っていた紙があったので、「ファックスで今すぐその15ページの紙を送ります」と言って送って、届いて、成績をもらい、それで叙階も受けられたし、その直後ローマ留学して教員になることができました。あの単位がなければ ここにいなかった。生徒一人ひとりのことを見捨てないで本当に大切にして声をかけてくださるという稲川神父様の気配りの優しさが私を救ったのです。 もう一つは2000年に諸宗教対話のローマの集会に出た経緯があって、報告文をオリエンス宗教研究所の『福音宣教』の編集部に投稿したところ、それを受け取って判定して載せてくださったのが石井先生でした。それから私が日本のマスコミでものを書くというチャンスが増えていったので、ものを書くのが好きな人間をデビューさせてくれたのが石井先生です。23年前のことです。私は毎年本を書いているのですが、ここまでできるようになった初めのきっかけは、石井先生が認めてくれたからで、こちらから挨拶せずに途切れていたのですが、ずっと心の中では感謝しています。本当に先生のおかげで仕事ができています。 このように、小さい気配りとか小さい一言が人の人生を救って人をデビューさせるということがあるので、皆さん方も、子どもたちへの思いというのを一言でいいので声をかけてあげてください。それがその子どもが社会的に大きく活躍するのを後押しする場合があります。 教皇フランシスコも、16歳のときに謙虚な司祭から励ましを受けてキリストとともに生きるという決意をしました。キリストとともにというイメージを抱きながら、皆さんも子どもに声をかけると、世界を変えることができます。私のように何の能力もない人間がお二人の方の励ましの声かけによってこうやって仕事ができているのです。私も若い人たちに声をかけるということをお二人から学びました。 ということで、これで今日のお話を終わります。 (2023年2月26日 カトリック関町教会仮聖堂)