2024年四旬節黙想講話 「キリストのからだを食べて、キリストのからだになる」

講師:林 正人神父様(東京カトリック神学院)

はじめに

 あらためて自己紹介させていただきます。昨年の4月から、東京カトリック神学院の養成者をしております林正人と申します。
 私は東京教区の司祭として叙階されたのは間違いないのですが、果たしていま自分のことを東京教区司祭と呼んでいいのか自分でもわかりません。と言いますのは、去年の4月まで町田教会の主任司祭をしていたのですが、そこから神学院に移るにあたって、東京教区の保険証を返納していま潮見にありますカトリック中央協議会の保険証をもらっているのです。ですから私は東京教区の司祭から中央協の職員になっていて自分の身分が曖昧なんですが、神学院の仕事が終わったら、たぶん菊地大司教様とアンドレア司教様は、私を東京教区に戻してくださると信じていますので、一応今日は東京教区の司祭として話させていただきます。
 ご紹介いただきましたように、私は来月〔3月〕の7日でちょうど司祭叙階20年になります。ここまでよくできたなあと思うのですが、神様のおかげ、皆さまのおかげでやってこられました。ありがとうございます。

 さて、今日の黙想講話ですが、「キリストのからだを食べて、キリストのからだになる」というタイトルを選ばせていただきました。ただし、何よりもこの関町教会は、神学院の養成者の立場から言えば、いつも初年度生(予科生)を受け入れてくださって、皆さんに育てていただいています。本当に感謝申し上げます。そういう事情がありますので、最初に、いまカトリック教会がどのように神学生・司祭を養成しようとしているのかに少し触れさせていただいて、その話から続けて、皆さんのお役に立てるような話のほうにもっていけたらなと思っていますので、よろしくお願いいたします。

司祭養成の現在:『司祭召命のたまもの』という文書

 いまも言いましたが、関町教会では神学生を、近年は予科生を――今年度は予科生二人と修道会から教区に移った神学生の三人を受け入れていただいていました。
 いまは、神学生になるには受験をして、1年目は予科生として神学校に入ってきます。いまの予科生の4年先輩のときから予科という制度ができました。その前から関町教会では初年度の神学生を受け入れてくださっていましたが、5年前までは哲学科の1年生が初年度生としてこちらにお世話になっていたわけです。では、その哲学科の1年生である神学生と、いまお世話になっている予科生はどのように違うのか。そのへんを、受け入れてくださっている皆さんに知っておいていただけたらもっと役に立つかなと思いますので、まずそのあたりから今日は話を始めていきたいと思います。

 予科生というのはどのような存在なのか。いわゆる哲学科・神学科の神学生とどのように違うのか。初めに答えを言ってしまうと、同じ神学校に住んでいてもこの二つの身分はまったく違うものです。なぜ予科という制度が生まれたのか。そこから入っていきたいと思います。
 2016年、8年前、バチカンの教皇庁の聖職者省(バチカンも国なので財務省などと同じようにいろいろな省があります)というところから、『司祭養成基本綱要』という文書が出されました。その日本語訳が、いま私が持っています『司祭召命のたまもの』という本です。ようやく2年前くらいに日本語訳が出ました。まだ新しいものです。『司祭養成基本綱要』ですから、つまり司祭がどのようなガイドラインに沿って育てられるかということを書いた本です。
 現代の司祭というものの考え方ですが、その「現代」というのはどこから始まるのか。それは皆さんにも薄々わかると思いますが、1962年から1965年の間、第2バチカン公会議が開かれました。それまでラテン語だけだったのが、各国語でミサができるようになったというのは皆さんご存じだと思います。その第2バチカン公会議の中で、これからの司祭はこういうように育てていこうということも討論されて文書が出されました。それに基づいて、1970年に教皇庁の教育省というところから『司祭養成に関する基本綱要』、〔すなわち〕第2バチカン公会議以後の司祭の生き方、育て方というのはこのようにしていきましょうという文書が出されました。ただその後も時代が下るにつれ、例えば、ヨハネ・パウロ2世が書かれた『現代の司祭養成』〔使徒的勧告〕という本が1992年に出ました。これはいまでも神学校で神学生を育てるための教科書になっているくらい重要な本です。ですから70年に一応ガイドラインが出た後も、司祭を育てることに関する重要な文書が次々に出たんです。そして、それを受けて2016年に、1970年のガイドラインが出てから約半世紀が過ぎたので、その後に出た本も踏まえてもう一度司祭養成のためのガイドラインを新しく作ろう、ということで出たのがこの本です。いまの司祭を育てるためのガイドラインの最新版がこの本(『司祭召命のたまもの』)というわけです。

「予科」とは?

 そして、2016年に出されたこの文書の中に初めて「予科」というもの、予科とは何か、どうしてできたのかが書かれているのです。
 お手元のプリントにはこの『司祭召命のたまもの』から抜粋した文章が書かれています。最初の59項とあるのが予科について書かれている箇所です。読ませていただきます。
 ここ数10年の経験から、司祭養成の期間に入る前に、あるいは人生の異なる道に入る二者択一的な決断をする前に、入門的な性格をもつ一定の準備期間を設ける必要のあることが明らかになった。通常、この期間は1年以上、そして2年までとされる。

 この準備課程は、固有な性格をもつ必要不可欠な養成の期間である。そのおもな目的は、霊的生活のための堅固な基盤を提供すること、また人格的な成長を促すための自己認識を深めることである。神学生が霊的生活を営み始めて、それを成熟させるためには、彼らを祈りへと導くことが必要である。―《中略》―この期間は、―《中略》―小教区への派遣や愛の奉仕の体験を通して、自分を役立てようとする活動力を発揮させるために適した時機である。
教皇庁 聖職者省『司祭召命のたまもの――司祭養成基本綱要』カトリック中央協議会、2022年
 つまり、神学院の門を叩く人たち、受験しに来る人たちは、もちろんその時点で自分の身をイエス様に捧げたいという重大な決意をもって試験を受けに来ます。そして神学院の試験を受ける前にも、名乗りを上げた各教区で司教様の面接などを受けます。ですからそのときから既に重大な決心をして入ってくるのは間違いないのですが、その重大な決意を1年または2年、特別な期間をおいて、特別な環境において、その決意が本当に神様のみ旨に適ったものかを確かめる期間が必要だと、この本に出ています。それが私たちの言う予科という時期になるわけです。東京カトリック神学院では、この期間を1年と定めて識別のときを過ごしていくわけです。
 この59項に書いてあるとおり、「司祭養成の期間に入る前に」、つまり正式な神学生という名前になる前に、そして「あるいは人生の異なる道に入る二者択一的な決断をする前に」、つまり自分の前に分かれ道があって、司祭への道かそれとも他の道か、神様はどちらに自分を呼んでいるか、その道を進む前にまず予科で1年を過ごすということです。それが、皆さんがここでお世話してくださっている予科生と言われる人たちなんです。今年度のあの二人はそういう識別の期間を1年間過ごしていたわけです。
 昨年11月にザビエル祭に来てくださった方はご覧になったかもしれませんが、予科生はそのほかの先輩たちとは別の棟に住んでいます。今年度からなんですが、予科棟という新たな建物ができまして、予科生は先輩たちとは住む場所も別にして1年間識別の時を過ごしているわけです。それほど予科生の1年間の識別は大切なんだということを表しているのではないかと思います。
 さて、予科生というのがどういう身分のものかはおわかりいただけましたでしょうか。

司祭として生きていくための指針

 その予科生のことも書いてあるのですが、ただ、この『司祭召命のたまもの』というガイドラインは、単に予科生も含めた神学生のため、つまり、司祭を目指す者たちのための養成のガイドラインとして作られたのではありません。神学生がどうやって神父になろうかというためだけのガイドラインではないんです。それはどういうことかというと、この日本語版の『司祭召命のたまもの』は菊地大司教様が序文を書いているのですが、その序文の一部をこちらのプリントに載せました。これを読んでみますので聞いていてください。
『司祭召命のたまもの―司祭養成基本綱要』発刊にあたって  菊地功大司教
 本文書『司祭召命のたまもの―司祭養成基本綱要』は、―《中略》―司祭養成の分野における新たな功績や経験に基づき、世界情勢の進展や変化に対応するため、約半世紀が過ぎた『司祭養成に関する基本綱要』(1970年公布)の内容を改訂したものです。しかし今回、本文書を公布したのは、教皇庁教育省ではなく聖職者省であることに留意したいと思います。この点に本文書の重要な特徴が表れています。―《中略》―「従来、司祭の生涯養成をおもな任務としていた教皇庁聖職者省に、神学校における初期養成の責任をゆだねた」―《中略》―本文書は、司祭叙階を目指す神学生や助祭のみならず、宣教司牧に従事しているすべての司祭・司教、また、初期養成と生涯養成にかかわるすべての人を対象とする基本的な内容を含むものです。
前掲書
 つまりどういうことか。先ほどの1回目のガイドライン、1970年に出たものは、教皇庁教育省という省から出されたものです。つまり、教育省ですから、将来司祭になる神学生のためのガイドラインということで1970年の本は出されたわけです。でも、この新しいものは教皇庁の聖職者省というところから出されました。つまりそれはどういうことかと言うと、司祭になるためのガイドラインではなくて、これは司祭として生きていくためのガイドラインということです。
 もっとわかりやすく言えば、神学生である時期、つまり司祭になるために勉強している時期と、司祭になってから司祭として全うするまでの時期、それを同じ聖職者省というところで見るということになったわけです。ですから、神学生の時期というのは司祭になるために勉強するだけではなくて、司祭として一生生きるための初期段階が神学生の時期なんです。だからこの二つはつながっているということを今回のこの文書は表しています。
 ですから司祭になるまでの神学生の時期を初期養成といって、神父になってから、願わくは司祭として人生を全うしたいわけですが、そこまでを司祭の生涯養成と言いました。それは一つにつながっている。ですから皆さんは神学生の1年目、予科生をいま面倒見てくださっているのですが、それは単にこれから神学生になろうとしている1年坊主を面倒見ているだけではなくて、これからずっと司祭になって司祭として全うするまでの長い人生の最初、それを皆さんが面倒見てくださっているということです。ですから、単なる学生さんじゃないんです。予科生も含めて将来神父として一生生きていく、その最初の段階を皆さんで面倒見てくださっているのです。本当にありがたいことです。また皆さんの責任も結構重いということです。
 ここに書いてあることは、菊地大司教様もおっしゃっていますが、神学生や助祭だけではなく、宣教司牧に従事しているすべての司祭・司教、また、初期養成、神学生の時期とそして司祭の生涯養成にかかわるすべての人を対象としています。つまり皆さんもかかわっている。皆さんのためのガイドラインでもあるのです。 関町教会の皆さまには、司祭の生涯にわたる養成、その最初期の養成の一部を担っていただいているというわけです。
 これはとても重要なことです。なぜならば先ほど59項を読みましたが、そこにあったとおり、予科の時期というのはもちろん祈り、勉強も重要なんですが、そのほかにも小教区(教会)への派遣、愛の奉仕の体験を通して自分を人に神に役立てようとする力を発揮する勉強をする時期です。確かに予科生は建物も別にして、生活をしているのですが、でも自分の部屋に閉じこもってひたすら手を合わせてお祈りをしているだけではいけないわけです。こうやって小教区に来て、皆さんの活動を見て学ぶとか、予科生は老人ホームとかにも定期的に行っているのですが、そういうところで愛の奉仕をして、そういう実体験を通して育てられていくというわけです。
 それは予科生に限ったことではなく、予科生も神学生も言ってみれば共同体から神学校に送り出されるわけです。教会から神学校に名乗りを上げ、自分の出身教会の人たちからこの子だったら応援できると言って送り出され、神学校で司祭になるための勉強をします。そして司祭に叙階された暁には、自分を送り出してくれた小教区、教会にまた戻って、小教区、教会のために働くのです。ですから神学生は共同体から生まれて共同体に戻っていくわけです。ですから教会の皆さんの祈り、働きというものが、神学生が司祭になるために何よりも必要なのです。

司祭養成における四つの次元

 司祭生涯養成というものが神学生から神父になるまでずっと一直線で続いていることはおわかりいただいたと思いますが、司祭養成における共同体の重要性は別の箇所にも記されています。
 90項にこう書かれています。
 共同体は司祭召命の沃地である。なぜなら、神学生は共同体から出て、叙階後は共同体に仕えるため、共同体へと派遣されるからである。初めには神学生として、後には司祭として、共同体との生きたきずなで結ばれていることが重要である。共同体は、この四つの養成の諸次元を調和させ総合させる縫い糸のようなものである。
前掲書
 「四つの養成の諸次元」というものが出てきました。共同体、つまり教会、皆さんは四つの養成の諸次元を調和させ総合させる縫い糸の役割を果たしているというのです。ではこの四つの養成の諸次元というのは何なのかということですが、それがこの下に書かれているものです。

   「四つの諸次元」
    人間的養成  霊的養成  知的養成  司牧的養成

 この四つの言葉は、さきほど出てきたヨハネ・パウロ2世が書かれた『現代の司祭養成』で初めて出てきた言葉ですが、司祭を育てるにあたって、そして司祭として生きるにあたって、この四つの養成を高めていくことが何よりも必要なんだと、この文書の中に書かれています。つまり、人間的養成、人間としての成熟が増していくこと、霊的養成、祈りの人として深められていくこと、知的養成、知識や学識が増していくこと、そして司牧的養成、それはイエス様を信じる人々を導く牧者として成長していくこと。この四つです。司祭として生きるのにこの四つを高めていくことが何よりも必要だとヨハネ・パウロ2世はおっしゃいました。
 この四つはすべて大事ですが、その中であえて一つ選ぶとすれば、いちばん大切なのは何なのかといえば、これは人間的養成です。人間として成熟しているかどうかということ。神父や神学生が、いかに頭が良くて、まとめるのがうまくて、普段から祈っているのがわかっていても、人間としてできていなかったらがっかりですよね。自分で言いながらどんどん自分の首が絞められていくのですが。やはり人間として成熟していることが、皆さんも司祭に求める第一のものだと思いますし、実際に司祭である私たちも、司祭として生きるのに第一に人間としてできていないと、それは司祭としてだめですよね。それは自分がそうなっているかどうかはともかくとして、私も認識しています。

共同体の大切さ

 そして人間としての成熟、人間的養成というものに欠かせないのもやはり人の集まり、共同体です。今日のこの話のテーマは一つには共同体です。人間的養成、人間として成熟させる場はやはり人の集まりの中です。そうですよね。人として成長するのに、自分一人しかいなくては成長のしようがないわけです。インターネットとかで調べて、人として成熟するにはこういうことをすればいいんだ、どんな本を読んで、どんな食べものを食べて、なんて言っても意味がありません。人の輪の中に入ってそこで揉まれて初めて人間として成長するわけです。
 だからこそ、予科生もただ部屋にこもって祈っているだけではなくて、こうやって共同体の中に入っていって、そこで揉まれて人間的に成長していくわけです。司祭ももちろんそうです。私にしたって、そして僭越ですが稲川神父様だって、人の中にいるからこそ人間として司祭として成長できるわけです。一人ぼっちでは成長できません。共同体というものが司祭の成長にとって何よりも必要なわけです。
 キリスト教とくに私たちカトリックの信仰というのは、一人の信仰、机上、つまり机の上の信仰ではありません。共同体の信仰、教会の信仰がカトリックの信仰です。共同体、人間の集まりの中で人間的養成が深まっていく。教会の中で、人の集まりの中で人間として成長していくというならば、それは神学生や司祭だけではありません。信徒の皆さまもそうです。皆さまも、共同体の中で人間として、神が望まれた人間として成長していくわけです。ですから私たち皆が人間として成長していくためには、この共同体というものが何よりも必要なわけです。
 ただし、いきなり前言を翻して申し訳ないのですが、人間として成長していくのに共同体はもちろん必要なんですが、でも人の集まりがあるからこそ、私たちに苦しみもまた生まれるというのは実際そのとおりなんだろうと思います。
 私たちは皆洗礼を受けて「聖書をちゃんと読みなさい。教会の教えもちゃんと読みなさい。じゃああとはおうちで信仰生活をしてください。じゃあがんばってね」キリスト教がそういう信仰生活だったら、正直言ってこんな楽なものはないかもしれません。語弊があるかもしれませんが。
 でも私たちは、建物としての教会にこうして集まって、一緒に共同体として祈る、それが私たちキリスト教、カトリックの信仰です。だけど人が集まるからには必ず問題が起きます。ときには喧嘩もあるかもしれない。
 聖書を読んでみます。使徒言行録の中に、教会に初めて起こった問題のことが書かれています。使徒言行録の6章です。こういうふうに書いてあります。
 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
『使徒言行録6:1』日本聖書協会 新共同訳聖書
 これが少なくとも聖書に記されている教会に最初にもちあがった問題です。これもある意味、共同体だから起こった話です。人の集まりがあったからこその問題です。洗礼を受けて皆家で祈っていればいいんだったら起こらなかったことです。でも教会で一つに集まっていたからこそ、こういう問題が起こりました。そのように、共同体の信仰であるがゆえに、私一人でなく複数人いるがゆえに、そこにつらさ、苦しみも生まれるわけです。イエス様は聖書の中で「二人三人がいるところに私もいる」とおっしゃいました〔マタイ18:20参照〕。つまりこの集まっている中にイエス様はいます。でもこうやって人が集まっているからこそ人としての問題も起こります。
 では、なんで人が集まるといろいろと問題が起きてくるのでしょうか。

だれ一人同じ人はいない

 それは簡単です。私たち人間は、一人として同じ人間はいないからです。考えてみれば当たり前です。この聖堂の中にいる人の中で一人も同じ人間はいません。だからこそ私たちの意見が、まったくピタッと一致することはありえないのです。それぞれが違う人間として違う生き方、これまでの歩み、そして違う信仰を持っている。その人たちが集まるのですから、意見の相違が教会にあるのはある意味必然なんです。私たちは一人として同じ人間はいません。ゆえに、人間の能力では、自分以外の人の気持ちを完全に理解することはできないわけです。だから人の集まり、共同体には必ず問題が起こります。教会も然りです。だから複数人でともに歩むことには苦しみも伴います。
 でもイエス様は、一人ひとりおうちでお祈りしなさい、ではなくて、教会に一つに集まってお祈りしなさいとおっしゃったわけです。それが、イエス様が望まれた、皆が一つになるようにというイエス様の祈りです。私たち一人ひとりは皆違いますが、その違う私たちが一か所に集まって祈ること。それが、イエス様が聖書の中でおっしゃった一つになるということです。

 今度はヨハネによる福音書を読みます。最後の晩さんの中でイエス様が父である神様にお祈りした場面です。ヨハネの17章です。このように書いてあります。
彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
『ヨハネによる福音書17:20-23』日本聖書協会 新共同訳聖書
 こうイエス様はお祈りしています。私と天の神様が一つであるようにここにいる皆も一つになるようにとイエス様は願われました。でもさきほども言ったように、私たちは一人として同じ人間はいません。同じ人間はいないんだけど一つになるようにとイエス様は言いました。そして一つになれるのだとイエス様はおっしゃったわけです。
 これは実は、去年のザビエル祭のときに特別講話として私がお話しさせていただいたときのテーマでもあるのですが、同じになることと一つになることは違います。人間が同じになることはできません。たとえクローン人間がつくられたとしてもその元の人とクローンの人はやはり違います。同じではありません。人間は一人としてこの世に同じ人間はいません。でも、その違う人間が一つになるようにとイエス様は祈られました。そして私たちは実際に一つになれるのです。

イエスのからだによって「一つ」

 ではどのようにして一つになれるのか。それが可能になるようイエス様は命をかけて十字架上でその身を捧げてくださった、そしてその命を捨てて私たちに救いを与えてくださった証としてご自分のからだを私たちに残してくださったわけです。私たちがミサの中でいただくご聖体、それは皆イエス様のからだです。一人ひとりに配られますが、一つのイエス様のからだです。イエス様のからだは二つありません。一つだけです。その一つのからだを、人間としては一人も同じでない私たちがいただくことによって私たちは一つになります。私たちがいただくご聖体はたった一つ。誰が食べるものも違うものはない。一つのイエス様のからだです。そのイエス様のからだ、イエス様の命をいただくことによって、同じでない私たちが一つになっていく、それがミサの不思議なところ、何よりもお恵みであるところです。
 ある神父様が言ったことばがあります。
 普通私たちがいただく食べものは、食べると栄養になって私たちのからだに入っていくわけです。つまり、食べものが私に変わっていくわけです。でも、イエス様のからだであるご聖体という食べものは、それを食べると食べた私たちがイエス様になっていくのです。普通の食べものは私になっていきます。でもご聖体を食べると、食べた私たちがイエスになっていく。なるほどと思いました。私が考え付いたとここで言いたかったのですがそれは噓になってしまいます。ある神父様が言ったことです。本当にそのとおりです。私たちは同じ一つのイエス様のからだをいただくことによって皆がイエスになっていきます。それが一つになるということです。
 そしてそれが、パウロさんがコリントの教会への手紙の中で書いていたイエス様を頭として皆一つのイエス様のからだになっていくということです。それが、イエス様のからだを私たちがミサにおいていただくことによって実現していくわけです。
 もう一つだけ聖書を読みます。そのくだんのパウロさんの手紙、コリント書第一の手紙の12章です。有名なからだは一つそして多くの部分があるというところです。このようにパウロさんは言っています。
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(Ⅰコリント12:12-22)

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(同12:27)
『コリントの信徒への手紙 一』日本聖書協会 新共同訳聖書
 もう一度言います。私たちは一つのイエス様のからだをいただくことによってキリストを頭とした一つのからだになります。だけれども、そのイエス様のからだを構成する私たちは人間として一人ひとり違います。それは言ってみればイエス様のからだの一つひとつの部分なわけです。一つのイエス様のからだですが、私たちは、例えば一人は親指の役割かもしれない、一人は耳の役割かもしれない、一人は足の役割かもしれない。そのように私たち一人ひとりの人間が違うものだからこそ、一人のイエス様のそれぞれの部分になることができるわけです。部分だけれども一つのからだになれるのは、私たちがミサの中で一つのイエス様のからだをいただくからです。
 パウロさんが言っているように、もし私たちが皆同じものだったとしたら、その部分がなくなってしまいます。一部分になってしまいます。それではイエス様のからだになりません。鬼太郎のお父さんになっちゃいます。私たち皆が同じ一つの眼になってしまったらイエス様のからだではなく鬼太郎のお父さんになっちゃうわけです。それではもはやからだとは言えません。私たちは皆違うからこそ、皆違って、でも一つのイエス様のからだをいただくからこそ、共同体としてイエス様のからだ、そして一つひとつが部分として働けるようになるわけです。
 今日いちばん皆さまに伝えたかったことは、共同体というのはイエス様のからだなしには一つになれない。そして共同体というのは一つになれる、だけれどもその構成する私たちは一人として同じ人はいません。だからこそ私たちは一つのイエス様のからだのそれぞれの部分としてイエス様のために働くことができるわけです。それがイエス様の共同体、教会です。さきほども言ったとおり、教会で皆違うわけですから問題も起こります。ときには喧嘩も起こるかもしれない。でも私たちがばらばらでなく一つになるように望まれました。そのために一つのイエス様のからだを残してくださいました。私たちはそれを食べ続けることによって、一つのイエス様のからだを構成していきます。
 何回も言いますが、私たちは一人として同じ人がいないからこそ、イエス様のからだというつなぎ合わせてくださるものがなければ、ひょんなことでばらばらになってしまうもしかしたら危うい存在なのかもしれない。だからこそ私たちはイエス様のからだを食べ続ける必要があります。それが、私たちが家で独り祈るのではなくて、こうやって教会に集まって一緒になってお祈りする意味です。そして皆が一つのイエス様のからだをいただくことによって、私たちは同じではないけれども一つになっていきます。
これからも関町教会の共同体の皆さま、日本の教会、世界の教会が一つになって一つのイエス様のからだをいただきながら一つのイエス様のからだとしてそれぞれの役割を果たしていけますようにお祈りしていきたいと思います。そのような共同体であることを私もお祈りしていますし、皆さんも目指していただければと思います。
 ではマリア様のお祈りをして、いったん私の話は終わりにさせていただきたいと思います。

2024年2月18日 カトリック関町教会聖堂